凍 月

3. 謀



部屋にはよい香りが漂っていた。

朝の鍛錬を終えるとすぐに高館へ向かうのが常の銀だが、
今朝は思い立って、香を合わせている。

手元に意識を集中し、丁寧に、しかし慣れた手つきで、着実に進めていく。

神子様のための香。
だが、あの方のことを考えてはいけない。
心を向ければ、また何かが…溢れ出ようとする。


近づく戦に備え皆準備に余念の無い中、望美と白龍の体調が思わしくない。
寝たり起きたりの状態というより、むしろ悪くなっていると言うべきか。
特に望美は、伏せっている時間の方が長くなってきている。

その様子に、銀は心が痛む。
望美の焦燥を、慰めることができないか、と思う。

せめてこの香で、心安んじてお寝み頂けるなら…。
少しでも、明るい笑顔を見せて頂けるなら…。

そう心に浮かんだ刹那、

「…う……ぐっ…」

赤い光に包まれた。
身の内から、肉を裂き、心を裂いて何かが溢れ出ようとする。

歯を食いしばる。
自分の手が、他人のもののように震えているのが見える。
額にぽつぽつと汗が滲んだ。


だから…
ただ心を無にしたまま、銀は手を動かす。

手は、覚えている。
身体は、覚えている。

何者とも分からぬのは、この心だけ。

香の調合は、他に幾種類もできる。
材料の良し悪しも分かる。

香だけではない。

軍議の席で広げられた地図を見れば、幾通りもの進軍の策が浮かぶ。
鎌倉軍の進路を阻む策もあれば、退路を断ち、壊滅に追い込む為の策もある。
だが実戦となれば、平泉軍の力量が……。

求められてもいない用兵の法を、いつの間にか考えてしまう自分がいる。

おそらくは、私は武士であったのだろう。
この手を朱に染めて、戦ったのだろうか。



その時、大声が聞こえた。
「銀!泰衡様がお呼びだ」
扉を開け、ずかずかと部屋に入ってきた郎党が、漂う香に顔をしかめた。

まるで、都の貴族気取りだ。
泰衡様に拾われるまでは、山野をさまよい、自分の名もわからず、
ひどく汚い様だったというのに。

泰衡様に気に入られ、よい気になっているのではないか。

郎党は、そう思っている。
しかし、その一方で、銀の実力は認めざるを得ないのだ。

剣ばかりでなく、弓も馬も、誰一人として銀に敵う者はいない。
しかし銀はそれに傲ることもなく、皆に交じって鍛錬も怠らず、
何より泰衡様への忠誠の心は、人一倍強い。


「すぐに参ります」
銀は、作業を中断し、素早く香を片付けた。

何があろうと、主に呼ばれたなら、それが第一。


しかし、銀が馳せ参じた時、泰衡の眉間の皺は、いつもより深かった。

「遅参、申し訳ありません」
理由を問うような泰衡ではない。
言い訳をする気持ちもない。
銀は、ただ詫びるだけだ。

泰衡は、いきなり言った。
「鎌倉が動いた。もう猶予はならん」
「はっ」
「龍神の神子の持つ、陽の気の塊…あれの使い道は、お前も心得ているな」
「はい、泰衡様」

「手に入れてこい」

一瞬、戸惑う。

「どうした。不服か」
「いえ、そのようなことはございません。
されど、白龍の逆鱗は、神子様にとっても大切なもの。
手放すよう説得するのは、難しいかと存じます」

「フッ…簡単なことも分からぬか。龍神の神子が逆らうならば、奪え」
「泰衡様…そのようなことは…」

しかし、泰衡は背を向けた。
「俺はこれから大社に行く。龍神の神子を連れてこい。
そこでお前の説得とやらを試みてみるがいい」
「はっ、ありがとうございます、泰衡様」



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