凍 月

8. 響



どれほどの間、気を失っていたのだろう。
辺りはまだ暗いが、もう空に月は見えない。
夜が明ければ、合戦が始まる。
鎌倉との……いや、荼吉尼天との戦いが始まる。

灌木を掠り、岩に当たり、地に叩きつけられた。
だが、生きている。

降り積もった雪が衝撃を和らげてくれたのか
魂に刻まれた呪が、魄の滅びを許さなかったのか。

そう、おそらくは呪われた身ゆえのこと。

それでも、

神子様…、十六夜の君。

今私は立ち上がり、夜の底を駆けている。
あなたの元へ、あなたを助けるために。

生きていて、生きられて…よかった。

崖を落ちていく私に向けた、あなたの眼…。
心の裂けるような悲鳴を上げて。

あなたは今、どれほどの苦しみに心をさいなまれているのでしょう。

私は生きていますと、あなたに告げねばなりません。
そして、もっと…もっと大切なことも。



雪明かりを頼りに、走る。
夜空の色が、次第に淡くなっていく。


取り戻した記憶が心に流れ込み、とめどなく溢れ出るのを感じる。

全てを、思い出した。
心に映る記憶の一つ一つが、鮮やかに像を結び直し、
そこに「平重衡」の思いが重なっていく。

平重衡として生きた歳月が、蘇る。

平家が権力の頂点へと上り詰めるのを見ながら成長した幼い日々。
華やかな宮中への参内。
あまたの宮人達との知遇を得、帝や上皇、法皇との拝謁をも許された。
綺羅星の如く輝く一門の人々は、元服するなり官位を持ち、
花と称えられて栄耀栄華の極みの中にいた。
何の疑いもなく、それを当然のことと思いこんで…。

だが、いつしか陽は傾いていたのだ。

平家への怨嗟の火種は、瞬く間に野火のように広がっていった。
滅びが間近に迫るのを感じながら、落日の日々を生きたあの頃。
南都炎上、父の死、都落ち…。


そして私は捕らえられ、
「銀」として、平家の敗北を知った。

知盛兄上は、西海の波間に沈んだと…
そのことを聞き及んでも、何の悲しみも…感じなかった。
銀である私の心には、さざ波一つ立つこともなく。

水島では舟の上にあり、室山では轡を並べて戦った。
数多の戦場を、共に駆け抜けてきた。
さらに昔……朧な記憶を辿っても、幼き頃からの思い出は、数知れない。

……兄上…。

胸が一瞬、耐え難いほどに痛む。

申し訳ありません…。
ここは戦場。
兄上のために瞑目し、祈るのは、しばしの後とさせて下さい。

「クッ…好きにすれば…いいさ」
そんな声が、今にも聞こえてくるような気がする。
しかし…この現世に、もう兄上はいない。
そして私の…重衡の知る、多くの人々もまた。

空が白々と明け初めてきた。
束稲山の山稜が、紫色の輪郭を見せる。
彼方で、鬨の声。

都は遠く、人々はさらに遠く、月日は流れ去った。

私に残ったものは、あなたへの熱い想いだけ。

穢れた魂、贖いきれぬ大罪をこの身に負いながら
私の心は、清らかなあなたを恋う。

十六夜の君…
この想いこそが、私の全て。



「銀がいるぞ!」
兵の叫び声がした。

「裏切り者の銀だ!」
「捕らえろ!」

散開していた平泉軍の先鋒と遭遇した。
あっという間に、周囲を取り囲まれる。

目指すは、大社。
泰衡……泰衡様は、そこで荼吉尼天を迎え撃つ。
あの方が、神子様を御所に戻すなど、なさるはずもない。
なれば神子様も、その場におられるはず…。

だが、ここから先は街の中。兵の目に付かぬように行くことは不可能だ。
周りを囲んだ兵が、じりじりと間合いを詰めてくる。
銀の腕を知っているのだろう。
雑兵は後ろに下がり、剣を構えた武士達が前に進み出てきた。

「てやあーっ!!」
「覚悟!!」
銀に向かって、数人が同時に斬りかかる。
しかし銀は彼らの剣を受け流し、射かけられた矢も全て打ち払う。
さらに打ちかかってくる武士の腕を取り、捻り様に剣を叩き落とした。

「下がれ!」
銀の声が、響き渡る。

その場の武士達は、一斉に雷に打たれたかのように、びくりとした。
皆の動きが止まり、気圧されて、思わず一歩二歩と後ずさる。
剣を持ち、弓を構える手が、言うことをきかない。

銀はと見れば、身体には無数の傷を負い、装束は破れて血と泥にまみれている。
それでも、鋭い眼光と、その身から放たれる闘気には、微塵の揺らぎもない。
凛とした、誇りすら感じさせる身のこなし、声色には、有無を言わせぬ強さがある。

こやつ、銀ではあるが、銀とは別の者…だ。
冷たい汗を滲ませながら、皆同じことを思う。
気迫だけで、これだけの数の武士を圧倒するとは、まるで大軍を率いる将のような…。

「神子様と泰衡様は、大社か」
銀は、長とおぼしき武士に声をかけた。
武士は、かすかに頷く。

銀が歩を進めると、ざっと、道が開いた。
家々の屋根の彼方に、聳え立つ大社の威容がある。

両側で剣を構える武士の群を一顧だにせず、銀は真っ直ぐに大社へと向かう。



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