凍 月

12. 月



潮騒の音に、目覚めた。

窓を閉めていても、そのかすかな音は 絶え間なく耳に届き、
部屋を満たす。

カーテンの隙間から、月の光が射している。

銀は静かに身を起こした。

枕辺に広がる、望美の長い髪にそっと手を滑らせ、
規則正しい寝息を乱さぬように、夜具から滑り出る。


朧な月のかかる春の夜。
外に出れば、ゆるやかな海の風が髪をなぶる。

群雲に隠れた月が、姿を現した。
真円から少し欠けた形。

今宵は十六夜の月…か。

熱い肌に、微風が心地よい。

眼前に広がる海。
月光を映して沖の彼方までゆらめく道がかかる。

潮の香に、数多の記憶がよぎっていく。
思いの流れるままに、時のままに、
銀は一人、風に吹かれる。

ベランダの柵に手を置くと、金属の冷たさが掌に触れた。

目を転じれば、家々の窓は明るく光り、
海辺を走る広い道を、自動車の灯火が絶え間なく通り過ぎていく。


ここは…、異世界。

あの戦乱の地から、遙かに離れて遠い……。

戦もなく、力を振るう神もなく、
武士も、浄土を求める祈りもない。
祈りを忘れて、生きることのできる世界。


銀はかすかに微笑んで、月を見上げた。

だが、海は…同じ。
……月も、同じ。

罪と穢れに苛まれ、全てを失ってなお、心を照らし続けたあの月と。


カタン…と小さな音がした。
望美が来たのだと分かる。

「神子様を起こしてしまったようですね。申し訳ありません」

望美はかぶりを振ると、差し伸べた銀の腕に身を預けた。

「銀……あの世界のことを思い出していたの?」

銀は少し驚いて尋ね返す。
「どうしてそのように思われたのですか」

望美は、くすっと笑った。
「だって私のこと、神子様って…。
この頃やっと、名前で呼んでくれるようになったのに」

「すみません。まだ私は、…慣れていないようです」


望美は銀を見つめ、ぽつりと言った。
「私も…呼んでいいかな。重衡さん…って」

思わず強い声になる。
「どうか、銀と…」

望美の瞳が、銀と月を映して潤んだ。
「だって、銀が…淋しそうだから」

「私が淋しい?……あなたと共にいるのに?」

望美は頷いた。


視線がぶつかり、
心が波のように大きくうねり、
次の瞬間、銀は望美を強く抱きしめていた。

ああ…この方は…神子様は…魂を感じ取る方。

心の内に秘めた痛みさえ、あなたには分かるのですか…。

この淋しさは、大きな悲しみと贖いきれぬ過去の痛み。
私が生きる限り、負わねばならないもの。
異郷にあっても、忘れ得ぬもの。

けれど、あなたが心を痛めてはならないのです。

ここは、平穏な世界。
あなたのいるべき世界なのだから。

龍神に導かれ至ったあの世界で、
あなたはどんな思いを抱いて戦い続けたのか…。
還る術を持ちながらも、あの世界で戦うことを選んだあなたは、
何も語らず、私に清らかな微笑みを向けてくれるだけ。

在るべき世界に戻ったあなたは、もう傷ついてはならない。

銀は、望美に曇りなき笑顔を向けた。

「神子様に、隠し事は出来ませんね」
「銀…」
「けれど、この淋しさは私を強くしてくれるもの。私が私である証です。
だからどうか…お心を痛めないで下さい」

銀をじっと見つめ、やがて望美はこくん、と頷いた。

「もう一つ、お願いがあります」
不思議そうな顔で、望美はまた頷く。

「…十六夜の君、どうか私に、愛らしい笑顔を見せて下さい」

暗がりでも、望美の顔がみるみる赤くなるのが分かる。

「もうっ…そんな風に言われたら恥ずかしいよ…」
そして、はにかんだような笑顔。

二人の唇が、静かに重なった。

「今宵は、十六夜の月です」
銀が吐息と共に囁く。

「銀と初めて会ったのは、こんな夜だったね」

「ええ…夢のような朧夜でした。
月から舞い降りた十六夜の君と、まみえることが出来たのですから」

「あの時、話しかけてくれたよね……春の夜の、朧月夜に…って」

銀の腕の力が強くなる。
「覚えていて…下さったのですか…」
「うん…。もう一度…言ってくれる?」
「私を置いて月に還ったりはしない…と、約束して下さるなら」

返事のかわりに、望美は自分もぎゅっと、腕に力をこめた。

銀は望美の頬に手を添え、瞳を見つめ、ゆっくりとその歌を唇に上らせた。

あの時のままの声が、
柔らかく、暖かく望美の心を満たす。

「照りもせず
曇りもはてぬ春の夜の
朧月夜にしくものぞなき」


あの宵から、どれほどの時が経ったのだろうか。

朧な月は、再び群雲に姿を隠し、
言葉の途切れた二人を、潮騒の音が包んだ。









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やっと書けたあとがき


銀の誕生日から遅れること約6週間、やっと完結しました。
最後までおつきあい下さった方々に、感謝致します。

終わりに近づくに従い、平泉を訪れたことが生きたかも、と
思うようになりました。
妄想力はあっても想像力に乏しい者には、
現地の「気」が必要不可欠なようです。

第1話で威勢良くブチ上げた「八葉」と「知盛」、
前者は話の流れ上、まるまるカットした部分があったりして、
不消化に終わってしまいました(猛省)。

対して、後者はかなり書き込んだつもり……なのですが。
いかがでしたでしょうか。


で、アホな繰り言を一つ。
当初、各話にサブタイトルは付けていなかったのですが、
話毎にテーマがはっきりしているので、途中から気を変えました。

で、タイトルに呼応させて、各話も[○月]というようにしようと。
ですが、第1話でいきなり躓きました。
まんま…死神の斬魄刀…(爆)。

これにめげず、それなら[○の月]にしようっ!と考えました。
その直後に、「遙か3」アニメのタイトルが発表になり…(大爆発)。

というわけで、漢字一文字で。
以上、……管理人がこっそりパニクったという、それだけです。
失礼しましたっ!

2007.11.6 筆