「あれが…梨壷の姫か…」
熱を含んでかすれた声で、男はつぶやいた。
「おお…あの姿、あの仕草…あの声…。
どんなに焦がれ、探したことか…」
入り日の射す透渡殿を、あかねと泰明は歩いている。
「泰明さん、ありがとうございました。
今日も、たくさん怨霊を封印できたし、この調子なら意外と早く、
内裏の浄化を終わらせることができるかもしれませんね」
自分に向けられた笑顔と、元気そうな言葉の陰に、
泰明はかすかな疲れの色を見て取った。
「神子、問題ないか。お前は少し疲れているようだ」
あかねはくすっと笑う。
「心配かけてすみません。でも平気ですよ、これくらい」
「お前が倒れては、意味がない。今日はもう、ゆっくり休め……」
泰明の言葉が、途切れた。
「?…泰明さん?」
泰明はその場で立ち止まり、周囲の気を探っている。
「何者かが、こちらを…神子の様子を窺っている」
そう言うなり、渡殿からひらりと下り立ち、庭を真っ直ぐに進んでいく。
「ここか…」
あかねのいる場所とは、庭を挟んで反対側にある渡殿の出入口。
泰明の表情が、厳しくなった。
「泰明さん、どうしたんですか?」
あかねが後を追ってきた。
「神子、来るな!」
「え?」
泰明のただならぬ様子に、あかねは足を止め、尋ねた。
「怨霊ですか?」
珍しく、泰明が少し言いよどんだ。
「残っているのは人の気…だ。だが、この気…本当に人なのか…?」
「穢れでしょうか?」
「そうだ。穢れは残っている。が、神子の手を煩わせるほどのものではない」
泰明は短い祓いの呪を唱えた。
「あの…よくわからないんですけど…」
泰明の呪が終わるのを待って、あかねは聞いた。
しかし、
ぐいっ…
泰明はあかねの手を引いて、足早に歩き出す。
「泰明さん?」
「神子、明日私が迎えに来るまで、絶対にこの梨壷から出るな」
「は、はい…」
泰明に引きずられるようにして、あかねは梨壷に戻ってきた。
強い力で握られていた手が、少し痛い。
だが、泰明の強い口調に気圧されて、なかなか理由を聞くことができない。
「これから結界を張る。私に出来る最強の術を施しておこう」
「あ…あの…」
「術を始める。話しかけるな」
「ご、ごめんなさい!」
「陰陽師殿は、何をされているのでしょう?」
梨壷の女房が、あかねに尋ねた。
「結界を張ってくれるそうなんです」
「ひ…!」
女房は恐ろしそうに身を縮めた。
「どうしたんですか?」
「結界をせねばならぬような、忌まわしいものが来るのなら、
早う、ここを逃げ出さねばなりませぬ」
「ええっ?!そんな大げさな事じゃありませんよ。
泰明さんのすることですから、安心していて大丈夫です」
女房をなだめながらも、あかねには泰明の行動が不可解でならない。
先程の小さな穢れと、こちらを物陰で窺っていた者のことを案じているのだろうが、
怨霊ではないと泰明自身が言いながら、なぜここまでするのだろう…。
「神子、終わった」
泰明が印を解いた。
「泰明さん、さっきのこと、そんなに大変なことなんでしょうか」
「分からぬ」
「え?」
「分からぬから、最大限の備えをした。
人であって、人ではない気配。生き霊であれば、厄介だ」
「生き霊…ですか。怨霊とは違うんですよね」
「推測に過ぎないことを論じても無駄だ。
だが、穢れがこの結界を通り抜けることが不可能…ということは、事実だ」
泰明は少し微笑んであかねを見た。
「だから、神子を害することはない。この梨壷は安全だ」
「ありがとうございます、泰明さん」
あかねも、にっこり笑い返す。
泰明はこの頃、優しい眼をするようになった。
今のように、少しだけ笑顔を見せてくれることもある。
それが、なぜかうれしくてならない。
が…
泰明はすぐに、無表情に戻った。
「だが、油断するな。梨壷から一歩出たら、どのような危険があるやもしれぬ。
お前はすぐに考え無しのことをする。必ず八葉を伴え」
う…やっぱり、いつもの泰明さんだ。
「はい、気をつけます」
あかねは、少ししょんぼりして答えた。
闇の中、白い指が黒髪をなぞってすべる。
繰り返し、繰り返し、その指はやさしく黒髪を撫でる。
「よいことがあったのだよ。聞いておくれ」
「………」
「とても愛らしい姫を見つけてね、お前のために、その姫に来て頂こうと思うのだよ」
「………」
「おや、愛らしいなどと言ったから拗ねているのかい?
やきもちをやくなんて、可愛らしいね。
でも私には、お前しかいないのだから、どうか機嫌を直しておくれ」
「………」
「
頬を寄せ合う、白い二つの顔がある。
餓えたように頬ずりし、饒舌に語る顔と、黙して語らぬ顔が、
闇にぼんやりと並んで浮かぶ。
ひいなの匣
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