「姫様のお越しを、一日千秋の思いでお待ちしていたのです」
屋敷の主は、心底ほっとした面持ちで言った。
少々薄気味悪い場所だけれど、来てよかったと、あかねは思う。
奥さんの具合は、どうなのだろう。
「こちらでこざいます」
主は、庭の奥の離れ家に、あかねを案内した。
周囲に蔀の格子もなく、出入り口も、たった一つ。
二部屋あるかどうか、というほどに小さな建物だ。
家屋というより、御堂に近い。
中に入ると、小さな控えの間。
光の射さぬ部屋の中、主の掲げる手燭の炎の周りだけが、ほの明るい。
主は奥の間に入り、
「彩女、よかったね。姫様が来て下さったのだよ」
御帳の中の人影に声をかけ、燈台に火を移した。
「どうぞ、こちらへ…」
促されて、あかねは奥へと進む。
「こんにちは、お加減はいかがですか?」
声をかけるが、返事はない。
眠っているのか、返事もできないほど辛いのか…。
あかねは、ふと強い違和感を感じた。
背筋に冷たいものが走る。
なんだろう…。
どこか、とても不自然だ…。
主が生絹の帳を引き上げた。
白い貌をした、美しい女性が眠っている。
いや、違う…。
違和感の正体がわかり、あかねは口元を押さえた。
胸の上下動が、無い。呼吸というものをしていないのだ。
それも道理。
あまりにも整いすぎたその姿は…。
「に…人形…?」
思わずあかねは後ずさりした。
その時、
「彩女、姫様にご挨拶を」
真後ろで、主の声がした。
その声に応えるように、
女の固く閉じられていた瞼が、ぱちりと音を立てて開いた。
眼球がつい…と横に動き、あかねをとらえる。
「さあ早く、彩女…。
この娘の心を食らって、人間になっておくれ」
主の細い指が、強い力であかねの肩を掴んだ。
「永泉殿、この隙に…♪」
「我らが鬼めを押さえております♪」
「ええい、坊主共が、邪魔をおしでないよ!」
御室の寺の門前は、大騒ぎだ。
永泉を狙って現れたシリンを、僧達が総出で止めようとしているのだ。
その日は永泉もまた、宝珠の異変を感じていた。
不安を募らせているところに来たのが、泰明の式神。
「南へ行け」
それだけを泰明の声で伝えると、式神は破れた札に変じてしまった。
「南…とは?」
その意味がわからず戸惑いながらも、永泉に不思議と疑いの気持ちは起こらない。
泰明殿を信じて、南へ行きましょう…。
御仏のご加護がありますように。
そして、急ぎ寺を出ようとした永泉の前に現れたのが、シリンだった。
「お待ちよ。どこへ行くつもりなんだい?」
「……あなたは…」
シリンの出現に驚いた永泉だったが、すぐにその意味を悟った。
「あなたが現れたということは、つまり…」
シリンは鼻先で笑った。
「つまり…、こういうことさ!」
シリンの術を、咄嗟にはね返す。
「神子もいないというのに、生意気な」
そこへ、
「永泉様!」
「ご無事ですか」
「おおっ鬼……」
「ここは清浄な寺。すぐに、退散せよ」
「何という目の毒…じゃない、心に毒を流すような格好を♪」
「法親王様に、手出しは無用ですぞ」
「この鬼、拙僧がお止め申す♪」
「いや、拙僧こそ♪」
「な、何なんだい?この坊主共は…っ!お離しっ!!」
というわけで、
瞬間移動しても術を撃っても、多勢に無勢。
シリンは完全に足止めを食らった。
「法親王様、よろしければこれを…」
気の利く小坊主が、どこかから老馬を引いてきた。
「ああ、助かります。」
「お急ぎ下さい!永泉様」
「あたしに触るな!」
「出家なさいませ…御仏の教えに帰依を」
「何であたしがっ!!」
しかし、
「あのう…神子が大変なのです。もう少し、急いでいただけますか」
永泉が声をかけても、まさに馬耳東風。
馬はのんびりと歩いている。
馬に乗ることなどない永泉だ。
鞭を入れるなど考えも及ばず、思ったとしても、できはしない。
馬上から周囲を見渡す。
双ヶ岡の裾を周り、南へと確実に進んではいるのだが…。
泰明殿からお報せ頂きながら、私は、なんというふがいのない…。
ぽつぽつと雨が落ちてくる。
低い空を見上げて、永泉は数珠を握りしめた。
チリ…数珠と触れ合った宝珠が、かすかな痛みを伝える。
「できることは…何でもしてみなければ。」
永泉はまなじりを決して、笛を取り出した。
「私の言葉が伝わらないなら、この笛に気持ちを込めましょう。
私を一刻も早く、神子の元へお連れ下さい…と」
しかし永泉が笛を吹くと、馬は完全に歩みを止めてしまった。
頭を傾げ、じっと聴き入っているようだ。
永泉はもう一度、馬に語りかけた。
「私のことならば心配要りません。しっかりと掴まっておりますから」
次の瞬間、馬は大きく嘶くと、威勢よく走り出した。
「ひええぇぇーっっっ!!」
馬に必死でしがみつく永泉の悲鳴が、雨の野に長く尾を引いた。
ひいなの匣
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