「彩女…」
主は、弱々しくあがいている。
「無事……なのか?」
ギィ…ギ、ギ…。
人とも獣ともつかぬ恐ろしい声が聞こえてくるが、
倒れた御帳が視界を遮っている。
起き上がれぬまま、手だけで這いずった。
「彩女、彩女…」
しかし、主がそこに見たものは、愛しき妻の面影を宿した人形ではなく、
忌まわしい姿の怪物だった。
頭部から長い黒髪を蛇の如く伸ばし、その下には、ぱくぱくと動く口。
全身に、人の顔形によく似た瘤がびっしりと付いている。
足元には、人形の衣がまとわりつき、怪物の動きに引きずられるままに、
襲の色目をとりどりに見せながら動く。
布の間に白く見え隠れしているのは、二つに割れた人形の顔の破片だ。
主は声もなく、凍りついたように動けない。
目の前の光景と、己のしてきたこと、大切な人形…、
それぞれを結びつけることが、どうしてもできない。
自分の世界が一気に崩れ、狂おしい希望のよすがが、
ふっつりと断たれてしまったのだ。
怪物の黒髪は、先程の陰陽師を捕らえ、その背に先端を幾本も突き刺している。
あの者も、痛みと共に食われているのだろう…。
姫を、あのようにかばいながら。
彩女……姫を食らえば、あの怪物は彩女になるのだろうか…。
ぼんやりと考えるが、ころんと転がった人形の顔は、
虚ろな眼窩をこちらに向けるだけだ。
その時、怪物がびくん、と大きく動いた。
白い光が陰陽師と姫を包んでいる。
淡い光は、みるみる強さを増し、怪物の黒髪が、光の中に散り散りに千切れていく。
ギャァァァッ…!!
怪物が苦悶の咆哮を上げると同時に、
稲妻が光り、地の底まで突きぬけるような轟音がとどろいた。
怪物は唸りながら、後ずさる。
泰明の瞳に、光が蘇った。
稲妻の光を映し、宝玉のように輝く。
「泰明さん!!…心が、戻ったんですね…」
「神子、ありがとう…」
泰明は、宝珠に触れているあかねの手をそっと握り、微笑んだ。
だが、それは一瞬のこと。
すぐに泰明は、怜悧な陰陽師の顔に戻り、怪物に向き直る。
「神子、あれは怨霊だ」
「あれが…怨霊?」
「鬼が、人形の中に心を食らう怨霊を封じ込めたのだ。
そして、あの男の弱き心につけこみ、神子をおびき出した」
「そんな……。じゃあ、あの人は最初から嘘を信じ込まされていたの?」
「同情するのは後にしろ。今は、あの怨霊と戦う」
「は、はいっ…!」
グォッ!ギギッ!
怨霊が、蠢く髪を再びざわざわと伸ばす。
しかし怨霊の髪が襲いかかった先は、屋敷の主だった。
「う、うわあっ!!」
逃れようとする主の胸に、深々と髪が突き刺さる。
もがく足が当たり、燈台が倒れた。
生絹の帳に、ぽっと炎が移る。
「この屋敷か!!」
「間違いありません」
「おい、門が破れてるぜ」
「泰明、やるじゃん」
「確かに、礼儀にかまっている場合ではないようだね」
「よし!乗り込むぞ!」
皆が屋敷の門をくぐろうとした時、
カッッ……!!
目も眩むような稲光が、全天を覆い尽くした。
同時に、凄まじい轟音と共に、屋敷を稲妻が直撃する。
びりびりと大気が震え、電光が四方に走った。
目を開いてみると、屋敷の屋根は黒く崩れ、部屋からは火の手が上がっている。
「あ…あかねちゃんは…?」
「神子殿…」
「急いで神子殿を探すんだ!」
「あれ、子供が…」
イノリが、屋敷から転げるように出てきた童に駆け寄った。
「おい、大丈夫か?」
童は、見知らぬ人々がいることに驚いたようだったが、
すぐに気を取り直した。
「お屋敷の中に、たくさん人がいるんです。
でも、みんなうまく動けなくて…お願いです!助けて下さい!!」
「そいつら大人なんだろう、動けないってどういうことだよ。
って、それより」
「神子殿を…梨壷から来た姫君を知りませんか」
童は大きく目を見開き、皆の顔を見渡すと、
「こっちです!ご主人様が離れ家にお連れしました」
そう言って、燃える屋敷の奥庭へ向かって走り出した。
皆がすぐに後を追おうとする中で、
「屋敷の方達は、私が助け出します。皆さん、どうか神子殿のこと、頼みます」
鷹通が言った。
「ボクも鷹通さんを手伝っていいですか。
あの子、お屋敷のみんなのことが心配なのに、ああして案内してくれて…」
「ここはオレ達に任せとけって」
激しい雨にもかかわらず、屋敷の中には、急速に火が回っていく。
屋内の乾いた家具調度に、次々と燃え移っているのだ。
落雷で開いた屋根から新しい空気が送り込まれ、炎は勢いを増していく。
ひいなの匣
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