時折、なま暖かい風が頬にあたる。
それ以外に動くものとてない道を、あかねは歩いていた。
右京のこの辺りは、ことのほか寂れている。
うち捨てられた貴族の屋敷が並び、破れた垣から、雑草の生い茂る庭がのぞく。
暗い曇天とあいまって、心が滅入る風景だ。
「…意外と遠かったな。やっぱり馬で移動するのとは違うんだ」
あかねは、ふうっと、ため息をついた。
今日の所は引き返そうか…と、ふと考える。
その時、ぽつりぽつりと雨が降ってきた。
「あれ?もしかして、あそこかな?」
前方に、比較的手入れの行き届いた門構えの屋敷が見えた。
手紙の主の家ならば、雨宿りもさせてもらえるだろう。
あかねは小走りになって急いだ。
友雅は目を伏せ、考えていた。
「……まさか、そのようなことで、何かあるとも思えないが…」
無意識のうちに、鎖骨の間の宝珠に指を這わせている。
「どうしたのだ、友雅」
帝がその様子を見とがめた。
友雅が、殿上で落ち着かなげな仕草をするのは、常にないことだ。
帝の言葉に、友雅は我に返る。
「申し訳ありません、主上」
「お前にそこまで物思いさせるとは、今度はどのような姫御なのだろうな」
冗談めかしてはいるが、帝の声にはかすかな懸念の色がある。
……鋭いお方だ。
友雅は、正直に答えた。
「龍神の神子のことで、少々心掛かりがございます」
「大事が起きていると申すか?」
「私の思い過ごしかもしれないのですが…」
帝は友雅の話を聞くと、言下に言った。
「すぐに行って、確かめればよい」
「主上、有り難きお言葉にございます」
「腰がもう半ば浮いているではないか、友雅。
神子の無事、私も気がかりだ。早う確かめて参れ」
「はっ」
昇殿の直前、あやうくぶつかりそうになった兵衛佐が、去り際に何気なく言った言葉。
それが、友雅の心にひっかかっている。
兵衛佐は、汗を拭き拭き、こう言ったのだった。
「そういえば、彩女殿とよく似た姫を、先日お見かけしましたよ」
「ほう、そのような姫が、人に見られるような所に?」
「ええ、ずいぶんと元気のよい姫で…」
そう言って、兵衛佐は少し苦笑した。
「梨壷の姫…とのことですが、そういえば、友雅殿もご存知なのでは?」
考えすぎならば、それでいい。
だが数日前、あの泰明が、
穢れを持った何者かが、内裏に出入りしている…と言っていたのだ。
梨壷には強力な結界が張られている。
だが結界とは、目に見えぬ穢れや怨霊に効果を現すものだ。
それ以外のものが入ってきた時は……。
「チ…チュ…チュッ!」
式神が、屋敷の中に入れない。
「やはり、何かある!」
泰明は馬に鞭を入れた。
馬の足がさらに速まる。
「きゃあっ」
「うわっ!」
「何しやがる!!」
泰明の駆け抜けるそばから、人々の悲鳴と怒声があがった。
馬を巧みに御しながら、泰明は都大路を駆け抜けている。
あかねのいる屋敷までの最短距離は、この道なのだ。
元より、人を馬の蹄にかける気などない。
行き交う人の動きを読み、馬を進めているのだ。
落ち着いてみれば分かることなのに、人々がなぜこのように騒ぐのか、
泰明には理解できない。
馬を駆りながら、泰明は式神を屋敷に入れようと様々に試みる。
だが、式神は屋敷の真上からさえも、入りこむことができない。
上空に留まった式神の視界に、
あかねと、びくびくと怯えたような様子の童が映っている。
童はあかねのために門を開け、屋敷の中へと案内した。
夏に向かっているというのに、庭の木々や草花が力無く枯れかけている。
あかねが、怪訝そうな顔で庭を見渡しているのが見える。
ふと、上空を見上げ、式神の姿に気づくと、にっこりと笑って手を振った。
……つきん…
泰明の胸が……痛む。
お前を一人で行かせてしまった私に…
そのように笑いかけることはない…
神子……
式神の視界の中で、あかねは屋敷に入っていった。
その姿を追うことは、泰明にはもう…できない。
ひいなの匣
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