「な、何ごと…?!」
突然のことに動揺した主が、周囲を見回した。
その隙に腕を振りほどき、あかねは思い切り相手を突き飛ばす。
よろよろとよろけて、主はぺたりと尻餅をついた。
顔には驚愕の表情。
まさか、宮中に上がるような娘が、このような狼藉を働くとは、
想像すらできなかったのだろう。
しかし、そんなことにかまってはいられない。
あかねは脇目もふらず扉に駆け寄り、手を掛ける。
と、何かが足に絡みつき、そのまま引き倒された。
足元に目をやり、黒いものが巻き付いているのを見る。
それの先を辿っていくと、こちらを向いたまま伏している人形がいた。
人形の髪が生き物のように蠢き、あかねの足に巻き付いたのだ。
髪は、抗いようのない力で、あかねを人形に引き寄せていく。
カタッ、カクン…、カタン…。
人形が、ぎこちなく起きあがった。
赤い口元が、きゅっと上がる。
笑みの形なのだろうか。
「きゃあぁぁっ!!」
あかねは悲鳴を上げた。
「おお!彩女…やっと動いてくれたのだね!」
主は躍り上がらんばかりに喜んだ。
「やはり、この娘でなくてはだめだったのか。
さあ、早く…早く食らっておくれ!」
「いやあぁぁぁ!!」
必死にもがいても、ずるずると引きずられていく。
助けて!!
お願い!!
……泰明さん!!!
その時だ。
扉が粉微塵に吹き飛んだ。
「眼を閉じろ、神子」
その言葉と同時に、バチバチと音を立て、青白い閃光が部屋を満たした。
グ…ギャアァァ…!!
人ならぬ苦悶の声が響き渡り、あかねの足首が自由になる。
「もうよい」
目を開くと、泰明がいた。
あかねに背を向け、あの人形と対峙している。
人形は後ろに倒れて、動かない。
流れ込んだ外界の雨の気が心地いい。
泰明の髪、着物の袖や裾からも、雨の滴がしたたり落ちている。
「大事ないか、神子」
「ありがとう、泰明さん……あの…ごめんなさい…」
「お前が考え無しの行動をとるのはいつものことだ。
分かっていながら、それを予期できなかった私が悪い」
「そ、そんな…」
「しかし、そもそもの元凶は、その男だ」
泰明は、呆然としている主を一瞥すると、氷よりも冷ややかな声で言った。
「己の欲望のため、鬼と取引きするとは」
「…ひ……」
主は息を飲んだ。
貴族が鬼とよしみを通じるなど、誰にも知られてはならないことだ。
だから、彩女のことは自分一人の胸の中に納めてきたはず…。
「鬼…って、どういうことですか?じゃあ、この人形も?」
「私の式神を防いだこの屋敷の結界は、鬼のものだった。
人形も、人の手によるものではない。
となれば、鬼に作られたもの」
泰明は、首にかけた数珠を人形に向けて掲げた。
「この人形の穢れは強い。このままにはしておけぬ」
「彩女!!」
主が転げるようにして人形の前に身を投げ出した。
「彩女に手を出すな!!これは私の妻だ!」
「鬼の甘言に乗り、愚かなことを」
「愚かでもよい!鬼でもよい!彩女が戻ってくるなら、私は何でも…」
主の言葉が途切れ、その身体が無造作に投げ出された。
ごっと、嫌な音をさせて壁に当たり、そのまま床に落ちる。
人形が立ち上がった。
主をつかんで放り出した髪だけが、ざわざわと動いている。
「やはり狙いは神子だったか」
「え?」
「あの男は、利用されたにすぎぬ」
カタタン…。
人形が、一歩踏み出した。
「神子っ、逃げろ!」
泰明は印を結ぶと、人形に向けて術を放つ。
ガクン!…と動きが止まった。
……と見る間に、カクン…カクン…と人形は奇妙な音を立て始めた。
ポトリ……と、腕が落ちる。
クン……と首がずれる。
首のずれたまま、人形は笑った。
口が大きく横に広がり、そのまま顔が二つに裂けていく。
「あ…ああ…」
あかねが、ぐらりとよろめいた。
「見るな!神子」
泰明は、あかねを抱き留め、その顔を胸に押し当てる。
「泰明…さん」
腕の中で、あかねが震えているのが分かった。
我知らず、腕に力がこもる。
「走れるか?」
「はい」
しかし次の瞬間、
人形の髪が、部屋いっぱいに広がり、二人に襲いかかった。
あかねをかばった泰明の背に、髪は矢のように突き刺さる。
「ぐっ!」
泰明の顔が苦痛にゆがむ。
「泰明さん!泰明さん!!」
「神子、お前は無事か?」
「私は大丈夫です。でも、泰明さんが…」
……神子が…心配している。
「問題ない」
「あの人形は、心を…食らうんです。泰明さんの心が…」
……神子、悲しそうな顔をするな。
「私は心を持たない。だから心を食われることもない」
自分の中に、何かが入り込んでくるのを、泰明は感じている。
無駄なことを…と思う。
「泰明さん…」
神子が泣いている。
どうすればいい……?
そうだ…
「案ずるな、神子」
泰明は、微笑んだ。
いつも神子は、私の笑みを見ると嬉しげな顔をする…。
これで…神子は、笑ってくれるだろうか。
私は、お前のために在る。
お前のことは…必ず守るから…。
「泰明さん!」
……「泰明さん」…
…………「やす…あき…さん」
腕の中のあかねの顔が、その声が…遠ざかっていく。
なぜ……
なぜ……私は失う
なぜ……持たぬものを失うのだ
神子……神子……
私は……失いたく……な…
ひいなの匣
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