遠くで雷が轟いた。
雨が屋根を叩く音がする。
あかねは思う。
雨に打たれてもいい。
外に…外に出たい。
ここは外界の光の届かぬ場所。
人形の住む匣。
そこに、人形と主、そして自分がいる。
「私の心を…あの人形に?…どういうこと」
主の指が食い込んで、肩が痛い。
その痛みが、かえってあかねを気丈にしている。
人形の放つ、わけのわからない恐ろしさとは違う。
この痛みは、現実だ。
「あの文は、私をおびきだすためのものだったの?」
自分のうかつさが悔しい。
でも、それを今嘆いてもしかたない。
ここから逃げることだけを、考えなくては。
瞬きをしない人形の目は、大きく見開いたまま、あかねの姿をとらえている。
光のない瞳の周囲だけが、ぬらりと白く湿り気を帯びて、
まるでそこだけが生きているようだ。
「彩女は、食らう心を選ぶのだよ。誰でもよいというわけにはいかない。
私の心を与えてさえ、彩女は…」
その言葉に、あかねはどきりとする。
「あなたは、自分の心を、この人形に食べさせたというの…?!」
しかし、あかねの動揺にはかまわず、主は残念そうに言葉を続けた。
「この屋敷の使用人達を食らわせても…」
さっき、童が庭の男に異様に怯えていたことを、あかねは思い出した。
「そんな…なんてひどいことを…」
あかねは絶句した。
「ひどい?命を奪うわけではないのだから、それは言い過ぎというもの。
庭で働いている男を、あなたも見たでしょう?
言いつけられたことは、あのように普通にできるし、
もちろん、食べることも眠ることも…」
この男…狂っている。
「それで、なぜ…私なの」
「あなたが彩女に…私と出会った頃の彩女に、生き写しだから…」
肩を掴まれたまま、あかねがゆっくりと振り向くと、
主はうっとりとした笑みを浮かべ、人形を見つめている。
「あなたの心なら、彩女を蘇らせることができるはず」
「……!」
やっと、あかねにも分かった。
この男の妻、彩女という女性は、もうすでに亡くなっているのに、
それを受け入れることのできないこの男は、
妻にそっくりの人形に心を宿せば、それが人間となって蘇ると信じているのだ。
でも、まだわからないことがある。
妄執に取り憑かれたこの男は、
どうやってこんな不気味な人形を手に入れたのか?
それが、一番不思議だ。
「あなたの話し方…その声、本当に、そっくりなのですよ」
男は言葉を続けた。
男は、つくづく思うのだ。
もしもこの娘のことを知らなかったなら、彩女はずっと…
そのことを考えると、身も世もなく、苦しい気持ちがあふれ出す。
鬼に…またも助けられた…。
ある晩のこと…
抜け殻となった使用人達が、幾人も倒れ伏す中、
男は、動かぬ人形に向かい、亡き妻の名を呼び続けていた。
その時、
「まだ目覚めさせることができぬか」
嘲るような声が、暗闇の底から漂い来た。
振り向きもせず、男は吐き捨てるように言った。
「私に偽りを言ったのだな、鬼め!」
「ほう、その人形が気に入らない、と言うのか」
「彩女は…、目を開くことしかできぬ。
微笑むことも、指先一つ動かすこともない…」
「フッ…狂った頭では、自明のことすら考えつかぬか」
鬼は嗤った。
「自明のこととは…何だ?まだ、何か足りないのか?鬼よ、教えてくれ!」
男は鬼に向かって、すがるように叫んだ。
鬼は、皮肉な笑みを浮かべた。
「梨壷にいる娘を、一度その目で見てみるがいい」
梨壷という言葉に、はっと我に返った。
喉がひりりとする。
「その方は、み…帝の…」
鬼の笑みが、ゆがんだ。
「それだけで足がすくむなら、それまで」
そしてそのまま、鬼はふい…と姿を消したのだった。
「あれは幾日前のことだったか…夕暮れ時にあなたを見た時には、
彩女が生き返ったのかと、錯覚するほどでしたよ」
男は、なつかしげに話し続ける。
泰明さんが気配に気づいたのは、この時だったんだ。
「あなたに早く来て頂きたかったのに、どうしても梨壷に近寄れず…」
男の手の力が、少し緩んできただろうか。
あかねは黙って、耳を傾けるふりをした。
しかし、男はふいに話を止めた。
今度はぐい、とあかねの腕をつかむ。
「長話など、無用でした。さあ早く、彩女に…」
このように強い力で掴まれたなら、とても振りほどけない。
せっかくの機会だったのに、ふいにしてしまったの?
あかねが身をすくめたその時、
ズオオォォォン…!!
大きな地響きと共に、離れ屋が揺れ、空気がびりびりと鳴動した。
ひいなの匣
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