ひいなの (はこ)  〜7〜

泰明×あかね(「舞一夜」背景)

  


遠くで雷が轟いた。
雨が屋根を叩く音がする。

あかねは思う。
雨に打たれてもいい。
外に…外に出たい。

ここは外界の光の届かぬ場所。
人形の住む匣。

そこに、人形と主、そして自分がいる。

「私の心を…あの人形に?…どういうこと」

主の指が食い込んで、肩が痛い。
その痛みが、かえってあかねを気丈にしている。
人形の放つ、わけのわからない恐ろしさとは違う。
この痛みは、現実だ。

「あの文は、私をおびきだすためのものだったの?」

自分のうかつさが悔しい。
でも、それを今嘆いてもしかたない。
ここから逃げることだけを、考えなくては。


瞬きをしない人形の目は、大きく見開いたまま、あかねの姿をとらえている。
光のない瞳の周囲だけが、ぬらりと白く湿り気を帯びて、
まるでそこだけが生きているようだ。


「彩女は、食らう心を選ぶのだよ。誰でもよいというわけにはいかない。
私の心を与えてさえ、彩女は…」

その言葉に、あかねはどきりとする。
「あなたは、自分の心を、この人形に食べさせたというの…?!」

しかし、あかねの動揺にはかまわず、主は残念そうに言葉を続けた。
「この屋敷の使用人達を食らわせても…」

さっき、童が庭の男に異様に怯えていたことを、あかねは思い出した。

「そんな…なんてひどいことを…」
あかねは絶句した。

「ひどい?命を奪うわけではないのだから、それは言い過ぎというもの。
庭で働いている男を、あなたも見たでしょう?
言いつけられたことは、あのように普通にできるし、
もちろん、食べることも眠ることも…」

この男…狂っている。

「それで、なぜ…私なの」
「あなたが彩女に…私と出会った頃の彩女に、生き写しだから…」

肩を掴まれたまま、あかねがゆっくりと振り向くと、
主はうっとりとした笑みを浮かべ、人形を見つめている。

「あなたの心なら、彩女を蘇らせることができるはず」
「……!」

やっと、あかねにも分かった。
この男の妻、彩女という女性は、もうすでに亡くなっているのに、
それを受け入れることのできないこの男は、
妻にそっくりの人形に心を宿せば、それが人間となって蘇ると信じているのだ。

でも、まだわからないことがある。

妄執に取り憑かれたこの男は、
どうやってこんな不気味な人形を手に入れたのか?
それが、一番不思議だ。


「あなたの話し方…その声、本当に、そっくりなのですよ」
男は言葉を続けた。

男は、つくづく思うのだ。
もしもこの娘のことを知らなかったなら、彩女はずっと…

そのことを考えると、身も世もなく、苦しい気持ちがあふれ出す。

鬼に…またも助けられた…。




ある晩のこと…

抜け殻となった使用人達が、幾人も倒れ伏す中、
男は、動かぬ人形に向かい、亡き妻の名を呼び続けていた。

その時、

「まだ目覚めさせることができぬか」
嘲るような声が、暗闇の底から漂い来た。

振り向きもせず、男は吐き捨てるように言った。
「私に偽りを言ったのだな、鬼め!」

「ほう、その人形が気に入らない、と言うのか」
「彩女は…、目を開くことしかできぬ。
微笑むことも、指先一つ動かすこともない…」

「フッ…狂った頭では、自明のことすら考えつかぬか」
鬼は嗤った。

「自明のこととは…何だ?まだ、何か足りないのか?鬼よ、教えてくれ!」
男は鬼に向かって、すがるように叫んだ。

鬼は、皮肉な笑みを浮かべた。
「梨壷にいる娘を、一度その目で見てみるがいい」

梨壷という言葉に、はっと我に返った。
喉がひりりとする。
「その方は、み…帝の…」

鬼の笑みが、ゆがんだ。
「それだけで足がすくむなら、それまで」

そしてそのまま、鬼はふい…と姿を消したのだった。





「あれは幾日前のことだったか…夕暮れ時にあなたを見た時には、
彩女が生き返ったのかと、錯覚するほどでしたよ」
男は、なつかしげに話し続ける。

泰明さんが気配に気づいたのは、この時だったんだ。

「あなたに早く来て頂きたかったのに、どうしても梨壷に近寄れず…」

男の手の力が、少し緩んできただろうか。
あかねは黙って、耳を傾けるふりをした。

しかし、男はふいに話を止めた。
今度はぐい、とあかねの腕をつかむ。

「長話など、無用でした。さあ早く、彩女に…」

このように強い力で掴まれたなら、とても振りほどけない。
せっかくの機会だったのに、ふいにしてしまったの?

あかねが身をすくめたその時、

ズオオォォォン…!!

大きな地響きと共に、離れ屋が揺れ、空気がびりびりと鳴動した。





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