ひいなの (はこ)  〜2〜

泰明×あかね(「舞一夜」背景)

  


何事もなく数日が過ぎた。
毎日のように泰明は「大事ないか?」と尋ねるが、何の異常もない。

心配してもらえるのは嬉しいけれど、杞憂に終わりそうでよかった…。
あかねは、少しほっとしていた。


そして…

その日はひどく蒸し暑く、どんよりとした空気に息苦しささえ覚えるほど。
じっとりと湿気が肌にまとわりつき、流れる汗がいつまでも乾かない。

朝から張り切って動いていたあかねだが、
日が高くなる頃には、もうすっかり疲れてしまっていた。

「大丈夫か?あかね」
「うん……え?…何か言った?天真くん」
「ったく、これじゃ、ちっとも大丈夫じゃねえ。
お前、今日の所はもう休んどけよ」
「ちょっと疲れただけだから、心配ないと思うんだけど」
「お前はすぐ無理するからな。でも足元がふらついてるの、自分で気づいてるか?
今日みたいな日は、熱中症とか、気をつけた方がいいんだぜ」
「え〜、そんなんじゃないよ」

「神子殿、どうかご無理なさらず。
よろしければ、これを…」
場を離れていた頼久が、水の入った椀を運んで戻ってきた。
「わあ、頼久さん、ありがとうございます!」

「頼久、俺には?」
「無い」


結局、二人に送られて、梨壷に戻った。
確かに、頭がなんだかぼんやりしている。

お行儀が悪いけど、女房さん…今いないよね。

あかねは、外の風がかすかに通る簀の子の上に、ごろんと寝転がった。

「これからどうするんだ、頼久」
「武士団の鍛錬に行くつもりだ」
「俺もいいか?」
「遠慮はいらない」
「よっしゃあ!」

頼久と天真の会話が次第に遠ざかっていく。

二人とも、元気だなあ…。
私もがんばらなくちゃいけないのにな…。

うーん、何かできること、ないのかな。

「あ…そうだ!」

あかねは身を起こした。

部屋に入ると文箱を開け、中から一通の文を取り出す。
数日前に童が届けてきたものだ。
女房達は、恋文と思いこんで盛り上がっていたけれど、
そのようなものではなかった。


曰く…
−−−−−私の妻が伏せってしまいました。
これといった病ではなく、穢れのためと思われるのですが、
お坊様に来て頂いても、祈祷師の方に頼んでも効果が無く、
妻は日に日にやせ衰えるばかり…。
姫様が穢れを祓うという噂を宮中にて聞き及び、
藁にもすがる思いでお願い申します。
是非是非、お力をお貸し下さいませ。−−−−−


このまま放ってはおけないよね。
これから、行ってこよう。

もう一度文面に目を通し、屋敷の場所を確認する。

その時、ふと違和感を感じ、よくよく見れば、
たった数日のことなのに、もう紙が痛んで黄ばんでいるようだ。

あかねが文をたたむと、端が破れて朽ち葉のようにカサリ…と落ちた。

空は鈍色にどんよりと曇っている。
雨になるのかなあ…。
でも、そんなに遠くないし、降る前に帰ってこられるよね。

庭の梨の木に止まった小鳥が、せわしなく羽ばたき、さえずった。




「おや、これは兵衛佐殿、随分とお急ぎのご様子ですね」
友雅は、あやうくぶつかりそうになった男を、やんわりと受け流して、転ばぬよう支えた。
「少将殿!…これはご無礼を仕りました!!」
兵衛佐は、深々と頭を下げたが、すぐに慌ただしく行こうとする。
「では、これにて…」
「お忙しいのですね。私も見習わないといけないかな」
「いいえ、そのような…」
兵衛佐は苦笑して言った。
「ここ数日、身体の具合が思わしくないと、休んでいる者がおりまして」
「それで、その分のお仕事を兵衛佐殿が?」
「仕方ありません。仕事には期限というものがありますから」

兵衛佐は、人の良さそうな顔に浮かんだ汗を袖で拭いながら、
小さくため息をついた。
「見舞いに伺った方がよいのかもしれません。
奥方を亡くされてから、めっきり力を落とされて、今度はご自分が病にかかるとは…」
その話ならば、友雅の耳にも入っていた。
「噂は、聞いておりますよ。無くなった方は、大変愛らしいと評判だったようですね。
名前は確か…」
「彩女殿…と申されました」




とある貴族の荘園に、大勢の武士と陰陽師が集まっている。

彼らが遠巻きに取り囲んでいるのは、巨きな怨霊。
それの放つ障気に、辺り一帯の草がみるみる枯れていく。

武士達の刃は全く通じない。
陰陽師達は調伏をしようと試みるが、彼らの術も、ことごとく怨霊の身体をすり抜け、
調伏どころか、傷一つつけられない。

「て…手強いな…」
「どうすればよいのだ」
陰陽師の間に、焦りが広がっている。

その時、一人が振り向いて叫んだ。
「遅かったではないか!泰明!」

兄弟子達からの緊急の報せに、陰陽寮を出退しようとしていた泰明が、
急遽駆り出されて、この場にやって来たのだった。

しかし泰明は、むっつりと黙ったまま、暴れる怨霊を見ている。
機嫌良く見えることなど無い泰明だが、今日はことのほか不機嫌そうだ。

「やっと来たか」
「こやつは少々強くてな」
「早う手を貸せ」
兄弟子達が口々に言うが、泰明は動かない。

「わざわざ私を呼ぶから、内裏に行かず来てみれば、この程度の怨霊か…」

泰明の言葉に、兄弟子達はいきり立った。
「おいっ!誰に向かって言っているのだ」
「つけあがるのもいい加減にしろ!」
「それだけ言うなら、この怨霊、お前が倒してみせろ」

くだらぬ言葉のやりとりなど、時間の無駄。
泰明が怨霊に向き直った時だ。

「……!神子…」

泰明の顔が強張った。

「神子、行ってはいけない…私が戻るまで、待て」

泰明は、式神を通して梨壷を見ている。

  あかねは、小鳥に向かってにっこりした。
  『すぐに戻ります』
  『私が戻るまで、待て』
  『困っている人がいるから…早く助けてあげないと』
  『八葉を呼べ』
  『みんな、お仕事や用事でいないんです。わざわざ呼ぶのも悪いし…』
  あかねは、駆け出して行ってしまった。

「どうした泰明」
「大言壮語を吐いてはみたものの、怨霊を前に臆したか」

兄弟子達の揶揄するような言葉が、耳に入ってくる。

このような気の滞った日に、強い怨霊に対峙する方が無謀なのだ。
暦ではよき日でも、万象は常時流転するもの。
それも分からぬか。

神子…すぐに行く。

泰明の眼が、鋭く光った。

「そこをどけ。下がっていろ」
怨霊の眼前に進み出ながら、泰明は言った。

「く…偉そうに…」
悔しそうな言葉をぶつけながらも、兄弟子達は言う通りにする。
警告に従わねば、我が身に泰明の術が及ぶ…と、分かっているからだ。
それほどに桁違いな力を、泰明は持っている。
だからこそ、その力を頼みにする。
そして、疎ましく思う。

泰明は空中に巨大な 五芒星を描いた。
それがぐるりと回転して、怨霊の身体を取り巻くように降りてきた。
五芒星が縮む。

「あれで、怨霊を縛するのか…」
しかし皆が見守る中、暴れる怨霊は 五芒星の囲みから、たやすく抜け出てしまった。

「ほうれ、見ろ」
「やつには術が効かないと…」
「ん?」

五芒星は縮みながら、さらに下へと降りていく。
次の瞬間、まぶしい光とともに地面に突き刺さった。

ギャ!ギ!…ギャァァァッ!

地がぐわり!と揺れ、大きく盛り上がった。
土塊が空中に飛散し、雨あられのように降り注ぐ。

「うわっ!」
「何と…?」

地中から、新たな怨霊が現れた。
地面のうねりに足を取られ、倒れた陰陽師達は、驚き、あっけにとられている。

「これが、怨霊の本体だ。本体を攻撃しなければ、倒すことはできない」
そっけなく、泰明は言った。

「禁呪!」
泰明の手から怨霊に向けて、呪符の札が吸い込まれる如く走った。

グオ…オォォォ…!

先程までの巨きな怨霊の姿がかき消える。

泰明は、地中から現れた怨霊に、くるりと背を向けた。

「お…おい、こら、どこへ行くつもりだ」
「あ…あと少しだぞ、なぜ追撃せぬ?」

振り返りもせず、泰明は言い捨てた。
「あと少しなら、私が手を出すまでもない」

「くっ…下手に出ておれば、ぬけぬけと…」
「まあよい、調伏するのは、あくまでも我らだ」
「そういえば…そうだな」
「ははは、手柄を譲るとは、やつも少しは…」

その時、ドサッと派手な音を立てて、武士の一人が馬から落ちた。
泰明の術に、馬上から弾き飛ばされたのだ。

「借りるぞ」
そう言い置くなり、泰明は馬に飛び乗り、駆け去っていった。

「な、なんということを…」
「しかし、やつが馬に乗るとは、珍しいこともあるものだな」
「何を急いでいるのだ、泰明は」
「やつの慌てている姿も、珍しいが」



式神が、あかねの後を追っている。

式神が上空から見たあかねの様子を、泰明も見ている。
馬を走らせている眼前の視界と、式神の視界。
二つを同時に見ても、惑うことはない。

あかねが向かっているのは、泰明のいる場所とは、
内裏を挟んで京の反対側だ。
遠い…。

他の八葉に報せるには、別の式神を使い、
さらに彼らの居所をつきとめなければならない。
時間が…さらにかかる。

小鳥ではなく、もう少し強い式神だったならば、
術であかねを留めることもできただろうが、
今それを悔いたところで、何も変わることはない。

様々な思いが浮かんでは消える。
しかし、繰り返し思うのは、ただ一つのこと。

神子…。

あかねの笑顔。
守らなければ…。
………八葉として…。


風が止み、低く垂れ込めた雲の下、馬は遠い神子を目指して疾駆する。





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