ひいなの (はこ)  〜4〜

泰明×あかね(「舞一夜」背景)

  


伏せっていた男が、ゆっくりと目を開いた。
その目には、うっすらと涙がにじんでいる。

蔀を締め切った部屋は、昼というのに暗い。

「私は…眠りたくない」
男はつぶやいた。
「眠れば、お前の夢ばかり見る」

言葉とともに、激しく咳き込む。

「梨壷の姫は…まだ来ないのか」
熱い息の下で、男は取り憑かれたように言う。
「彩女…私が逝く前に、一度だけでも笑顔を向けておくれ…」

男はやっと寝返りを打ち、肩で息をした。

「あの…鬼の言う通りにすれば…、ああ、そうすればお前は…」

男は、夢見るようにうっすらと笑った。


あれは、春の終わりの頃であったか…。
夜の闇の中、悲しみに泣きはらし、涙さえ枯れ果てた男の前に、
ふいに立ち現れた仮面の男。

あでやかな緋色の束帯を身にまとい、その髪は闇の中で金色の光を放っていた。

「鬼…」

男は、驚かなかった。
恐ろしいとも思わなかった。
食われて死ぬなら、それでもいいとさえ思った。

最愛の者を亡くした今、男の心は閉ざされ、何もかもが遠かったのだ。

「面白い…」
鬼の口元に、笑みが浮かんだ。

「お前は生きながら地獄を這いずる者。生きる亡者と成り果てたのだな」

鬼の言葉に、怒りは湧かなかった。
むしろ、そうなのかもしれないと思う。

だが、何のために鬼はここに来たのか…
男がそう思った時、まるでその心を読んだかのように、鬼は口を開いた。

「お前に、これをやろう」

鬼が手を広げると、その腕の中に年若い娘が現れた。
力無く垂れた頭がくるりとこちらを向き、

「彩女!!」

思わず男は叫び、娘に向かって駆け寄ろうとした。
しかし…

「違う…これは!これは…」
男は、がっくりと膝をついた。

「フッ…お前には、これが人形にしか見えぬか」
冷たく笑って、鬼は言った。

一瞬燃え上がった喜びが大きすぎただけに、
男は、首を振ることしかできなかった。

「だがこれは、お前の愛しき者に生き写しなのではないか?」
やっとのことで、声を振り絞る。
「彩女は…生きていたのだ!そのような動かぬものなど、彩女ではない」

「ではこれに、生命を吹き込んだなら、どうなる?」
ぞっとするほどに甘美な声で、鬼は言った。

「そのような…ことが…」
「できるのだ。そうなれば…これはまたお前に微笑みかけよう」
「彩女が…再び私に……?」
「お前を愛し、お前と共に喜び、いつもお前のそばにいるだろう」

男は魅入られたように、鬼の言葉に聞き入った。



男のとりとめもない思いは、おずおずとした童の声に遮られる。

「あの…お客様でございます」
「……もしや、梨壷の姫では?」
「はい。内裏の梨壷からいらしたそうです」
「おお!!」
男は我を忘れ、喜びの声を上げた。

なぜか梨壷には、どうしても近寄れなかった。
仕方なく童に託して文を届けさせたのだが、
返事もなく、焦燥の念がつのるばかりだったのだ。

あの鬼の言う通りだった。

「梨壷の姫は、心優しい娘だ。愚かなほどに…。
困っている者には、手を差し伸べずにいられないのだ」

「すぐに行く。待って頂きなさい」
男はだるい身体を起こし、急いで身支度を調えながら言った。
気が変わって帰られては、もう後がない。
主人の声の調子に急かされたかのように、童も足早に戻っていった。





「あれ?あかねちゃん?」
梨壷をのぞいた詩紋が、怪訝な声を出した。

「変だなあ」

運んできた冷たい菓子を文机に乗せようとして、
あかねの残した書き置きを見つける。

「こんなお天気なのに、一人で出掛けちゃったの?」

ここに書いてある行き先って、どの辺りなんだろう…
思案しながら目を落とした時、落ちている破れた料紙に気づいた。

「これって…文用の紙…だよね」
拾い上げると、紙はカサコソと乾いた音をたてて崩れていく。

「……あかねちゃん…」
詩紋はきゅっと唇をかみしめると、部屋を飛び出した。


内裏の廊下を走っていると、思い切り誰かにぶつかりそうになり、
柔らかく受け流されて、転ばぬように支えられる。

「やれやれ、今日は男ばかりが胸に飛び込んでくるようだね」
「友雅さん!」
「麗しい花ならば、この腕でしっかりと抱き留めてあげるのだが」
「友雅さん!!…ごめんなさい、で、あのっ!!」

「急いでいる人にも、よく会う日だ。で、どうしたんだい?」
からかうような友雅の声が、詩紋の表情を見るなり、低く鋭くなった。

「……もしかして、梨壷から来たのかな」
「はい、…今日はあかねちゃんが、疲れてるから部屋で休んでいる…って
天真先輩から聞いて、お菓子を作って持っていったんですけど」
「部屋はもぬけの空…というわけかい?」
詩紋はごくっと唾を飲み込みながら頷いた。

「あの…心配しすぎだって、笑われるかもしれませんけど、
あかねちゃん、ここに行ったようなんです。
ボク、迎えに行こうかと…」
詩紋はあかねの書き置きを見せた。

友雅はそれを読み、かすかに眉根を寄せる。
「この辺りは、かなり寂しい場所だよ。姫君が一人で行く所ではないね。
ついてきなさい。私も一緒に行こう」
「はいっ、ありがとうございます、友雅さん」
「なあに、私も同じ、八葉の一人だからね」

詩紋には笑顔を向けているものの、
友雅は、自分の漠然とした懸念が、次第に形をとりつつあるのを感じていた。

確証もない疑惑を、詩紋に伝える必要はない。
徒にこの少年を不安にさせるだけだ。

だが、行き先の屋敷の場所がわかっているのだから、
誰が住んでいるものか、鷹通に尋ねるべきだろうか。
いや、鷹通ならばすぐに調べてくれるだろうが、
治部省に寄る時間が惜しい。


いつから降り出したものか、雨がぽつりぽつりと落ちている。

内裏の門を出ようとした時に、
「おーい!!」
天真の声が聞こえた。
振り向くと、頼久と一緒にこちらへと駆けて来る。

「あかねを、見かけなかったか?」
「神子殿が、部屋にいらっしゃらないのです。
どちらにいらっしゃるか、お心当たりはありませんか」

「あ、皆さん、こちらにいらしたのですか」
鷹通もやって来た。

「真面目なお前が仕事抜け出すなんて、珍しいな」
天真がからかうが、その機を逃さず、友雅は尋ねた。

「この場所に、誰が住んでいるか知りたいのだが、
すぐには分からないものかな」
「そこならば、存じておりますよ」
「ほお…」
「ええっ?!」
皆一斉に、感嘆の声を上げる。

「いえ、驚かれることでもないのです」
鷹通は眼鏡を外すと、袖で曇りを拭った。
ここまで、かなり急いで来たらしい。

「ここにおられる方は、最近奥方様を亡くされまして、
お力落としなのか、お住いを移られたばかりなのです」

「そうか…」
友雅の顔が厳しくなった。

「これは、急いだ方がよさそうだ」

その時、はたりと何かが皆の真ん中に落ちてきた。

鳥の形をした紙だ。
ひどく痛んでいる。

その鳥が、声を発した。
「分かっているなら、急げ」

「泰明殿?」
「これ、泰明さんの声だ…」

「神子が…危ない…」

そこまで伝えると、鳥の形は失われ、破れた札が後に残った。





(5)へ






ひいなの匣    (1)  (2)  (3)  (5)  (6)  (7)  (8)  (9)  (10)  (11)  (12)

[小説トップへ]