夢喰観音 11

泰明×あかね ゲーム本編中


観音像に打ち込まれた呪詛の楔。

帝の呪詛を願った宮人の名など、すでに知る術もないが、
一人の宮人が、己が怨念を込めた楔を鬼に差し出した、という事実――
その暗い憎悪だけが、今もなおここに在る。

それは、どれほどの怨みだったのだろう。
得られぬゆえか、失ったゆえか、
目映い光に満ちた内裏では、影もまた底知れず黒く深い。

栄華を手にすれば、ひとときは極楽。
だが高みを極めたなら、あとは下るのみ。
高みを知った者にとって、下るとは奈落に落ちるに等しい。

手を取り合って瘴気の中を進む泰明とあかねの前に、
夢喰観音の喰らい続けた悪夢が次々と現れ、
重なり合い、渦を巻いて襲いかかってくる。

栄耀栄華に肥え太りながら、なお餓え渇いた欲望。
妬みと執着と恐怖。
地獄を垣間見て、そこから逃れようとあがく苦しみ。

『現から来た者……
終わらぬ悪夢の中で
朽ちよ』

終わらぬ悪夢――
それは、いにしえの宮人が彷徨った現の地獄に他ならないのだろう。

悪夢が現を侵し、現が悪夢となる。
そこに境界などないのだ。

悪夢は結界に取り憑き、数多の手、数多の目が、
ひしめき合いながら二人を囲んでいる。
数多の顔が醜く歪んだ形相で睨みつけ、
数多の口がおぞましい呪いの言葉を吐きかけた。

しかし泰明は動じることなく結界を保っている。
我執に囚われた悪夢の有り様は、生霊や怨霊と根源を一にするもの。
対して、陰陽師の為す業は、それらに対峙し調伏することに他ならないからだ。

それでも他の陰陽師であれば、吹き付ける憎悪の濃密さに
いささかなりとも怖れ怯むことがあったかもしれない。
しかし泰明は恐怖というものを知らない。

その時、繋いだ小さな手がぎゅっと泰明の指を握った。
眼を向ければあかねの横顔が強張っている。

泰明は呪符を指の間に挿み腕を高く上げると、
真っ直ぐに振り下ろした。
鋭い光が刃のように走り、悪夢の群がざくりと割れて、
一条の光が二人の行く手を照らし出す。

「ありがとう、泰明さん」
あかねの声に安堵の色を感じ取り、泰明もまた安堵した。
だが、気を緩めたわけではない。

一歩進むごとに瘴気は増していく。
泰明の術に幾度となく切り裂かれても、悪夢の渦は次々と蘇り、
ついには実体となって、禍々しい腕を二人に伸ばし、
歩みを止めようと髪を掴み、足を掴み、金切り声を上げて罵る。

「神子、呪詛は遠いか」
「いいえ、あと…少しです。泰明さん」
あかねは眼前にひしめき合い、視界を覆う悪夢の向こうを凝視して答えた。
「ならば、この邪魔な悪夢を一気に祓う。いいか、神子」
「はい、お願いします」

その刹那、背後に忍び寄っていた凶悪な気が牙を剥いた。
呪縛を逃れ、後を追ってきた獏が襲いかかってきたのだ。

爪が結界を掠めるが、元より獏の攻撃は二人に届かない。
だが、獏の位置を見定めた泰明は、
「先に行け! 神子」と叫ぶなり結界を飛び出した。
攻撃が通らぬと知った獏は、二人を跳び越えて前に回ろうとしている。
悪夢の渦を薙ぎ払い、獏の懐に走り入った泰明は
二枚の呪符を投げて獏の後ろ足を縫い止めた。

「ぐおぉぉぉっ! 許さぬぞ、陰陽師!!」
獏の咆哮が響き渡る。

あかねは足を止めた。
悪夢の渦の向こうで瘴気に身をさらし、泰明は獏と戦うつもりだ。
「泰明さん!!」
「早く行け、神子」
「結界の中に入って!!」
「獏は止める。問題ない」
「だめ!! このままじゃ、泰明さんは」
「私は、こやつを止めることができる。
お前は、お前にしかできないことをしろ!」
「泰明さん…」
「お前は龍神の神子で、私は八葉だ。
行け」





どろりとした瘴気と渦巻く悪夢の間を、あかねは一人で走る。
だが、どんなに足を動かしても、身体を前のめりに倒しても、
なかなか前に進まない。

悪夢の中で走っている時みたいだ。
悪夢が、現実になっているから……
ここは、悪夢の支配する場所だから……。

でも、不思議だ……。
呑み込まれそうな渦の中にいるのに、私は大丈夫だ。
私はまだ、前に進める。
あの呪詛を浄化すれば、きっと泰明さんは助かる。

もどかしい歩みを重ね、それでもあかねは次第に呪詛に近づいていく。
禍々しく脈動する呪詛の楔は、眼の前だ。

「これに触れれば…」

あかねが手を伸ばしたその時、暗紫色の光が眼を射た。

突然、あかねの前に深い淵が広がる。
呪詛の楔が遠ざかり、同時に、あかねを守っていた結界に小さな亀裂が走った。
じわり…と瘴気が滲み入ってくる。

『消えよ』

流れ込んできた瘴気が素足に触れると、びりびりと痛い。
それはあかねの足下から上へと這い登り、全身を覆い、
息を奪い、視界を奪う。
暗闇が落ち、意識が遠ざかっていく。

『消えよ』
呪詛の楔が暗く光った。

あかねは霞んでいく眼を開き、前を見る。

――泰明さんは……こんな瘴気の中で…戦っている……

朧な意識をかき集める。

……なのに…私……このままじゃ……だめ……

腕を伸ばす。

お願い……龍神様、力を貸して下さい。
私に、あと一歩進む力を…。

あかねは歯を食いしばり、深い淵の上に躊躇いなく足を踏み出した。

幻には、だまされない。
これは呪詛の最後のあがき――落下への恐怖を呼び覚ます幻。

『来るな』

暗紫色の光が激しく明滅し
そして、龍神の神子の手が呪詛に触れた。





闇の中に薄闇が生じ、悪夢は現へと
ゆるゆるとその場を明け渡しつつある。

泰明とあかねの前には、一抱えほどの大きさの獏が倒れていた。
白く長い毛に覆われた、年老いた獏だ。

「あんなに巨きな獏が…」
「呪詛が消え、本来の姿に戻ったのだ」

「まあ、そういうことじゃ」
獏はそう言って、鼻をひくひくと動かした。
「しかしお前さん方…、あやつを倒すとは驚きじゃわい」
「夢喰観音の手先となっていたお前が、今さら何を言う」

獏は、よろよろと立ち上がった。
「そうじゃな。元はと言えば、たらふく悪夢が喰えると喜んで
夢違観音に居着いたのがよくなかったのう。
やっぱり、獏は自分の鼻と足で、悪夢を集めるに限るわい」

泰明は獏を見下ろし、素っ気なく言った。
「神子、今度こそ、こやつを封印だ」
その言葉に獏は泰明を見上げ、あかねを見やり、
次いで、薄闇の中空に目をやった。
そこには、ぽっかりと空いた黒い穴がある。

「あの穴は何ですか?」
「あれはの、獏の通り道じゃ。儂ら獏の住む、夢と現の境への道じゃよ。
呪詛が消えたおかげで通じたのじゃろう」
獏は掠れた声で言うと、鼻を鳴らしてぺちゃりと座り込んだ。
「いかん。少し立っていただけで疲れたわい」

あかねは獏の顔を覗き込んで言った。
「じゃあ、獏の世界に帰れるんですね」
「何を言うとる。儂ぁ、怨霊じゃぞ。もう獏ではないんじゃ。
こんなに爪も牙も血まみれではのう…」
一声唸って、獏は目を閉じた。

「神子、こやつは覚悟を決めたようだ」
怪訝な顔をしたあかねに、泰明が言う。
「覚悟?」
「封印される覚悟だ」
獏は震える足を踏ん張って、再び立ち上がった。
「そういうことじゃ。けじめはつけんとなあ」

「ごめんなさい…私、ひどいことを言ってしまいました」
老いた獏は、あかねのしょんぼりした顔を見上げた。
「そんな顔はしないでくれんかの、んまそうな娘さん」

獏はよたよたと歩き、白い頭をあかねの足にもたせかけた。
「封印とやらで、この身の始末がつくなら上々じゃ」

泰明が獏をつまみ上げて、あかねから引き離す。
「神子、すぐに封印だ」
獏はちろりと泰明を見た。
「さらばじゃな、忌々しい陰陽師」

白い光が薄闇に広がり、眩く輝いて獏を包む。
「何ともやさしい光じゃ。
ありがとうよ、娘さん」
獏は下瞼をすうっと持ち上げ、光の中に消えていった。





ぴくん…と、永泉の睫毛が動いた。
続いて、「ふぁ…ぁ…」と、小さなあくびが漏れる。

「永泉様、目覚められましたか!」
「ふあ…おはようございます…友雅殿」
「お身体に異変はありませんか? ご気分は」

「え…友雅殿?」
永泉は、ぱっちりと眼を開いて起き上がった。
「異変とは何でしょうか? 友雅殿はなぜここに…?」

そう言ってきょろきょろと周りを見回し、永泉はやっと思い出した。
「友雅殿、神子は戻れたのですか!?」

友雅はほっとして肩の力を抜く。
「ああ、泰明殿の術を受ける前のことを覚えていらしたのですね。
記憶が失せたのではと、本気で心配をしてしまいました」

「す、すみません。
私の眠りがお役に立ったのならよいのですが…
あの…泰明殿は、獏をおびき寄せることができたのでしょうか」

永泉の問いに、友雅は頷いた。
「泰明殿は一瞬の機を逃がさず、闇から現れた獏の舌を見事に捕らえました。
神子殿も泰明殿も、まだ戻ってきてはいませんが、あれをご覧下さい」

そう言って友雅が示したのは塗籠の扉。
それを見た永泉は、胸に手を置いて長い吐息をついた。
「ああ……闇が薄れて…」

じわじわと領域を広げていた闇の壁が、頼りない靄のように形を崩し、
漆黒の闇の色は鈍い黒色へと変わりつつある。

「二人が帰ってくるのも間近いでしょう」
「はい、私も、そのように思います」

友雅と永泉は、元の輪郭の見えてきた塗籠を見つめた。
内裏に下りた闇の帳は、刻々と薄らいでいく。


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再開しました。
待っていて下さった皆様に心から感謝です!!

次の第12話で完結です。


2011.02.27 筆