封印の光が消えると同時に、ぱきん…と何かの割れる音がした。
音の源は、呪詛の楔があった場所だ。
そこに、観音像が倒れている。
鈍色の霧のような薄闇の中、慈悲の微笑みは変わらぬままだ。
しかしその身体には、心の臓に当たる位置を中心に、
亀裂が四方に走っていた。
「楔が消えたから…なんですね。とても痛々しいです」
あかねの悲しげな声を背に、泰明は油断無く観音像に近づく。
だが、歩を運ぶ内に分かった。
もう夢違観音像には凝り固まった念も穢れも、暗い力の残滓もない。
膝を曲げて身を屈め、像を拾い上げようと手を触れる。
その瞬間、観音像は笑みをたたえたまま音もなく崩れ去った。
泰明の背中越しに見ていたあかねが、驚きの声を上げる。
「観音様が……消えた…」
「神子によって、この像は呪詛から解き放たれたのだ。
悲しむ必要はない」
泰明は振り向いてあかねを見上げ、小さく微笑む。
「神子は獏を封印し、呪詛を浄化した。
闇も薄れつつある。ここが現の空間に戻るのも間近い」
「そうですね…これで全部終わったんですよね…」
あかねはにっこり笑った。
「よか…っ……」
言の葉が花びらのように、はら…と散り落ちる。
「神子!」
咄嗟に下から支えた泰明の腕に、あかねが倒れてきた。
瘴気を浴びたのか。
なぜすぐに言わなかった。
だが、泰明の言葉は口の端に上る前に止まる。
腕の中にあかねを抱き留めた瞬間、
柔らかな唇が、白い呪をかすめて通った。
一瞬の知覚が引き延ばされる。
眼を閉じ、青ざめた頬をしたあかねの顔が近づき、
肩を支えた泰明の腕の中で僅かに角度が変わり、
唇が触れて――
熱い。
その一点に、全ての感覚が集まっていく。
これまでに触れた何よりも熱い。
熱がもたらす耐え難い疼きが、胸の中に同じ熱をもたらす。
「神…子……」
腕の中のあかねは、規則正しい呼吸をしている。
気を失っているが、大事はない。
無意識のうちにそれだけ確かめると、
泰明はあかねの瘴気を祓った。
撫物の札を使い、祓えの呪を唱えると、
あかねにまとわりついていた瘴気が札に集まり、ちりちりと黒く縮んで消える。
「神子…瘴気は祓った。もう問題ない……」
小声でささやくが、あかねは眼を開かない。
泰明は小さく首を傾げた。
さらに陰陽の術を施せば、気を失っているあかねを目覚めさせることは容易い。
だが、そのようなことをする気持ちになれないのだ。
昨日からのことを思えば、あかねが倒れてしまうのも無理からぬこと。
全てが解決した瞬間、張り詰めていた気持ちがふつり、と切れたのだろう。
――神子、しばし休むといい。
あかねの髪をかき上げ、額に手を当てて眠りの呪を唱える。
泰明が見守る内に、青ざめた頬に血の気が戻り、
あかねはすうすうと心地よさそうな寝息を立て始めた。
腕の中にある頼りなげな軽さ、薄い肩。
伝わり来るあたたかさ。
小さく開いた唇の、淡い花の色。
神子は弱く、それでいて強い。
恐怖を知らぬ自分と、怖れの中にあって折れない神子。
その清浄なる強さの意味を問うたなら、神子は何と答えるのだろうか。
いや、神子とは、あるがままに在る者。
伸びやかに、ひたむきに、真っ直ぐに。
神子……お前の眼は、何を見る。
お前の心は、何を求める。
お前の眼に、私は映っているのか…。
神子……お前はこんなに近いのに、
なぜ、とても遠い……。
ずきずきと痛いほどに鼓動が高まっていく。
息を整えても、抑えることができない。
身の内の五行が激しく乱れている。
呪が……燃える。
遠くから、微かな音が届いた。
外界の音が聞こえてきたのだ。
話し声と衣擦れの音は、友雅と永泉のものだ。
現が悪夢の名残を駆逐し、周囲には、ぼんやりと塗籠の形が戻りつつある。
灰色の大きな櫃の影、几帳の輪郭、火の無い高燈台――
止まっていた時が、動き出した。
行かなければ。
神子を連れて戻り、封印を終えたことを一刻も早く伝えるべきだ。
神子は怨霊を封印し、呪詛を浄化した。
私は八葉として、陰陽師として、務めを果たした。
それだけのことなのだ。
ここで無為に時を過ごす必要なはい。
だが、この刹那の刻は
――私の中に刻み込まれる永劫。
惑いの心を払えぬままに、泰明はあかねを抱いて立ち上がり、
塗籠の扉に真向かう。
泰明の惑いとうらはらに、霧が晴れるように闇が消えた。
塗籠の扉の向こうは、眩しい光に満ちている。
夢喰観音
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完結しました。
1か月以上の中断が入りましたが、
待っていて下さった皆様、
最後まで読んで下さった皆様に、心から感謝です!!
で……事故ちゅうはよいですね。
話はこの後、火之御子社でのイベントに続く感じです。
下書きでは、泰明さんの独白が長めに入っていたのですが、
迷った末、ばっさり切り落としました。
お楽しみ頂けたなら、嬉しいです。
2011.02.27 筆