夢喰観音 7

泰明×あかね ゲーム本編中


   『すぐに行きます。泰明さん、どうか…気をつけて!』

式神の鷺を介し、糺の森にいるあかねと言葉を交わした時、

   『案ずるな、神子。問題ない』

泰明は獏との戦いの最中にあった。




朝議を終え清涼殿へ帝が戻る途上のこと。
内裏の奥から恐ろしい悲鳴が響き渡ると同時に、
帝の行く先に巨きな黒いものが蠢いた。

だが突然のことに、侍従も衛士も何が起きたか把握することができない。

誰一人として動けぬ中、帝と影の間に飛び込んだのは泰明だった。
獣の咆哮と同時に青い桔梗印が炸裂する。
黒いものの動きが止まり、その場の者達は、
それが、鍵の手に曲がった回廊の先にいる巨獣を映した影と理解した。

「獏はここで止める。逃げろ!」

泰明の言葉に、「ひい…」と小さく叫んで侍従の一人が腰を抜かす。
「こ…こやつが」
「左大臣殿を襲ったという…」

朝議での左大臣の進言により、
― 怨霊・獏を潜ませた観音像を直ちに見つけ出すように ―
との命が下されたばかり。
その命を受け、衛士達が内裏に向かった矢先に怨霊が帝を襲うとは。

「危ういところであった。感謝する、安倍の陰陽師。
その力、永泉から聞き及ぶ通りだ」
「私が押さえている間に、早く行け」

帝と泰明の遣り取りに、呆然としていた者達は一斉に我に返った。

一介の陰陽師のことをなぜ帝や法親王が知るのか訝しく思う者もいたが、
今はそのようなことなど些事にすぎない。
その場の者達は皆、帝を守りながら後も振り返らず逃げ去った。

獏の唸り声が大きくなる。
みしり、と柱と床が軋む。
――まだだ。まだ、やつを動かすわけにはいかない。
内裏から人々が逃げ切るまでは。

そして泰明にはもう一つ、するべきことがある。

「行け!」

泰明の手から、式神が放たれた。
ほっそりとした鷺の形の式神だ。
ふわりと浮かんだ次の瞬間、力強く羽ばたいて空高く舞い上がる。

獏を封印するためには、あかねをここに呼ばなければならない。

――神子が……来る。

そう思った時、朝から続いている自分の中の空疎な痛みが
少しだけ和らいでいることに、泰明は気づいた。

痛みの原因は分からない。
どこか壊れているのかもしれない、とも思う。

だが、かすかな惑いの間にも、泰明は迷いなく動いている。
今やっておかねばならないことは、はっきりと分かっているのだ。
あかねが来る前に、獏の力をできる限り削っておかなければならない。
呪符を手に、泰明は回廊を曲がった。

ほんの数歩先に、昨夜対峙したばかりの獏がいる。
「忌々しい陰陽師め」
脈動する桔梗印の中、瘴気を吹き出しながら獏が吼える。

「どこから現れた、獏」
「ぐるるぅぅ……答えると思うのか、愚か者」
獏は背中の毛を逆立てた。

「ならば探り出すまで」
泰明は呪符を獏に向け、宙に放す。
獏は牙を剥き、ひらひらと飛び来る呪符に瘴気を吹きかけた。
と、瘴気に触れた瞬間、呪符は無数の切片に分かれる。
宇治殿で、瘴気の痕跡を追った方法だ。
切片は獏の上空で渦を巻くと、勢いよく飛び去った。

獏は短い首をねじ曲げて、その行方を追う。
「儂の動いた跡を辿るつもりか!」
「そうだ。観音像はその先にある」
「ほんに、お前は狡いやつよのう…」
喉の奥で、獏は奇妙な音を鳴らした。

泰明の眼が、鋭く光る。
獏は今…嗤ったのだ。

泰明は印を結び、気を集中する。
青い光が強さを増し、獏の身体を覆っていく。
「陰陽師…ふぜい…が」
嗄れた声を振り絞ると、獏は前足をがくりと折った。

その時、泰明は大きく眼を見開いた。
「落ちた…!?」

獏を捕らえた桔梗印を操りながら、
泰明は視界の一部で切片の行く先も追っていた。
その最後のひとひらが、庭石の上に散り落ちたのだ。
切片は四方八方に散らばったまま、
どれ一つとして観音像に辿り着くことはなかった。

凄まじい咆哮が響き渡る。
桔梗印が引き千切れ、獏の鋭い鈎爪が泰明の肩口に突き刺さった。
身を捻って逃れながら、泰明は間髪入れずに術を撃つ。

「効かぬわ」
獏は前足を振って術を弾いた。
その先端の爪には、引き裂かれた装束の切れ端がぶら下がっている。

傷口を押さえることもせず、泰明は次の攻撃を仕掛けた。
「軌跡を辿れぬよう、二度三度と同じ所を動き回ったのか。
弱った素振りまでするとは、狡賢いのはお前の方だ」

獏の口が大きく広がる。
「嬉しいのう、褒められてしもうた。
何もかも人間が教えてくれたのじゃよ。
像に潜んでおっても外の音はよう聞こえるでの」

「内裏が捜索されることも、それで知ったか」
「噂の方が、命令より早く儂の耳に届きおったわ。
恐ろしい観音像だの、ここにも探しに来るだの…とな。
女共の噂話というのも、役に立つものじゃ」
「それだけ分かれば十分。獏、やはりお前は獣だ!」

泰明の撃った術を、獏は再び振り払った。
「傷をかばうこともせぬとは、面白くないやつじゃ。
痛みに苦しむ気の一つも出してみせぬか」

泰明の声が低くなる。
「痛みに苦しむ気…だと…?
お前は…ここに来るまでに、何を喰らった!」

切片の行方を追いながら、泰明はその場の様子も見て取っていた。
獏が動いた後には、大勢の人が倒れ、
傷を負って呻いている者もいれば、ぐったりと動かない者もいた。

「許せぬ…」
泰明の抑えた声に、獏は再び喉の奥で奇妙な音を鳴らした。

「仕方なかろう。儂とて、見境無く人を襲うなど、しとうはなかった。
儂はこれでも、味にはうるさいのでな。
身分の低いやつは、儂の口には合わんのじゃよ。その点…」
獏は下瞼を上げ、目を細めた。
「帝の血筋はよいのう。子供も珍味じゃ」

獏の周囲に、黒い瘴気が立ち込めていく。
昨夜より格段に強くなっている獏の力は、人々から喰らった生気ゆえか。

その時、泰明の視界に柔らかな光が射した。
鷺が、あかねを見つけたのだ。

鷺は短く、要点だけを伝える。

「内裏だ、神子」
『え? 内裏?』
『獏が、現れたのだね』
「そうだ」
『兄上…主上はご無事ですか』
『左大臣殿は』
「どちらも無事だ」
『すぐに行きます。泰明さん、どうか…気をつけて!』
「案ずるな、神子。問題ない」

その瞬間、どろどろとした獏の瘴気と、収斂した泰明の気が激突した。
弾けた気が飛び散り、柱が折れ、床が砕け、壁が吹き飛ぶ。
無数の木片が泰明を襲うが、それは獏も同じこと。
さらに獏は、瘴気を貫いた泰明の気にしたたかに打たれていた。
獏の気が大きく揺らぎ、膨れ上がった巨躯が縮まっていく。

獏は一声唸ると、泰明が次の術を撃つ前に素早く反転して逃げ出した。
「逃がさぬ!」
だが、一歩踏み出した泰明の足が、がくんと止まる。
大きな木片が直撃したせいだろうか。
いつものように動かせない。
僅かに足を止めた隙に、獏は姿を消してしまった。

その時、泰明はひっそりとした気配が近づいてきたことに気づいた。

「一足遅かったか。負傷しているようだが大丈夫か、泰明」
「獏を取り逃がすとは、だらしないことだ!」
「動ける者は皆内裏を出た。獏とやらの特徴を教えてくれ」

陰陽寮から駆けつけてきた安倍家の陰陽師だ。
いずれも晴明の高弟。泰明にとっては兄弟子に当たる手練れの者ばかり。
このような場での行動は、皆心得ている。

陰陽師ならではの会話が短く交わされ、泰明と三人とで役割を分けた。
獏の「調伏」と、倒れている者の治療、救出だ。
兄弟子の中には不満を露わにする者もいたが、
言い争っている場合ではないことは明白。
娘がやって来たなら、泰明の居場所を教えるように、との奇妙な依頼には
皆揃って首を傾げながら、三人は音もなく去っていった。


泰明は、兄弟子の一人から渡された撫物の札で手早く治療をすませると、
獏の後を追って北に向かって走り出す。

神子が来るまでに、獏を見つけなければ。
再びやつをあぶり出すのだ。

追尾の呪符を使うまでもない。
切片が流れていった場所には、多くの女達が倒れていた。

あの光景は、後宮だ。

そして獏は、得々として自らの居場所を明かしていたのだ。

『噂の方が、命令より早く儂の耳に届きおったわ。
恐ろしい観音像だの、ここにも探しに来るだの…とな。
女共の噂話というのも、役に立つものじゃ』

七殿五舎の立ち並ぶ中、朝議での決定が噂として素早く流れ来るような場所。
内輪の話をすることで、歓心を向けてほしいと思うほどに
価値のある相手がいる場所。

女御か中宮か……。

小さな滝の脇を駆け抜け、泰明は後宮に走り入った。


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あかねちゃんと離れて、心のどこかに淋しさを感じつつ、
真面目に陰陽師の務めを果たす泰明さんです。

今回も短めですが、
更新が遅くなりましたので、
一旦ここで区切ってアップしました。

次回、クライマックス突入です。


2010.12.20 筆