夢喰観音 9

泰明×あかね ゲーム本編中


まばたきよりも短い、一瞬のことだった。
泰明と友雅の間にいたあかねが、消えた。
まるで時間がすっぱりと断ち切られたかのように。

「神子!!」
「神子殿!!」

二人の声が、弘徽殿に空しく響き渡る。
周囲は黄昏時の暗さだが、薄闇に溶け入る長い西庇の先にも後ろにも、
人の気配はない。

「神子…」
周囲の気を探っても、あかねは見つからない。

だが、あかねがどのように消えたのかは分からずとも、
無理矢理連れ去られたことだけは確かだ。

「泰明殿、まずは灯りを調達してこよう。
ここまで暗くなっては、神子殿を探すどころか、
動くこともままならないからね」

友雅の言葉に、泰明は無言のまま腕を伸ばし掌を上に向けた。
その掌から、淡い蛍のような光が幾つも浮かび上がる。
光は二人の頭上に集まり、周囲を照らし出した。
しかしどこにも、あかねの姿はない。

「友雅、この先には何がある」
「西庇は右に折れて北の庇に続いているが、
母屋の側は、馬道を通り過ぎたら納殿と塗籠だ」

泰明は真っ直ぐ前を見たまま、短く言った。
「塗籠に行くぞ、友雅」

感情を表さず、時に冷たいと感じさせる口調の泰明だが、
今の言葉は抑揚すらほとんどなく、ひどく固い。

このような時でも、それに気づかぬ友雅ではない。
――取り乱しているのだろうか、泰明殿は。
ふと考えるが、今それを問うなど無意味なことだ。

「そこで手がかりが得られるかもしれない、ということかな」
「そうだ」
「では、急ごう」

そして、塗籠の前に来た二人は、その考えが正しかったことを、
暗澹たる思いと共に知ることとなった。

塗籠の扉が開き、中から瘴気が絶え間なく流れ出てくる。
だが、漆黒の闇に包まれたその内側には、入ることができないのだ。
泰明の術も通らず、中の様子を窺い知ることもできない。

「ここに観音像が隠されているのは、間違いないようだね。
そして、おそらく神子殿も」
流れ来る瘴気に眉を顰めたまま、友雅は塗籠の壁を調べていく。

「泰明殿、壁を壊したなら、中に入れるだろうか」
「扉の向こうは異質な空間だ。
こちら側の壁を破壊しても、境界を越えることはできない」

昨日、泰明が獏と戦っている時、御堂の外にいたあかねは、
ちょうどこれと同じ光景を見ていたのだろう。

泰明の胸に、身を裂かれるような痛みが走った。

獏の潜んだ御堂の中は、真の闇に覆われていた。
同じ闇の中に、今、神子がいる。
闇に恐怖を抱く神子が、たった一人。
そこに獏が現れたなら……。

その時、泰明の灯した光が明滅した。
いや、周囲の暗さが一瞬だけ増したのだ。
そしてもう一度、さらにもう一度……。

「泰明殿、これは…まるで塗籠の闇が脈動しているようだ」
「友雅、壁を見ろ」
「…! まさか…
こちらからは仕掛けられないのに、闇の内からは…」

闇が脈動するごとに、塗籠の扉も壁も、その中に取り込まれていく。
先ほど友雅が調べた壁が、今は薄闇に覆われて触れることもできない。

「このままでは、弘徽殿が…いや、内裏が闇に喰われる」





「夢喰…観音? でも宇治殿の厨子には…」
「夢違観音…とあったはず、と言いたいか、神子。
この観音像も、ひとときはそうであったのだろう。
哀れな帝が、ひたすらにすがるほどに」

眼の前の赤い唇に、凄絶な笑みが浮かんだ。
「我が祖先の仕込んだ呪詛が、このような形で開花するとは、
皮肉なものだな、龍神の神子」

アクラムの言葉の意味する底知れぬ怖ろしさに、
あかねの身も心も冷えていく。
「呪詛…帝の仏様に…?」

アクラムは嗤った。
「雲上人の醜さは、今も昔も変わらぬ。
帝の呪詛を我が祖先に願った宮人がいたのだよ」

昨夜、アクラムの手に現れた像から受けた、禍々しい印象。
その正体が分かった。
呪詛の石に似ていたから、そう感じたのだ。

だったら、その呪詛を浄化すれば……
観音像は、どこ。
あ……でも、ここは観音像の中なんだ……

あかねが闇の向こうに視線をさまよわせたことに気づき、
アクラムは嗤いを含んだ声で言った。
「こうなっても、まだあきらめぬか、神子。
助けは来ぬよ。人ならぬ陰陽師も、左近衛府の武官も」

頤をきつく掴み上げていたアクラムの指が、ふいに離れる。

爪先立ちしていたあかねは足元をよろめかせたが、
震える膝に力をこめ、かろうじて倒れないように踏みとどまった。

「アクラム、もうこんなことは止めて」

あかねの言葉に、アクラムは昂然と顎を上げた。
「どこまでも愚かだな、神子。今何が起きているかも分からぬか」

そこで初めて、あかねは気がついた。
足下のさらにその奥に、かすかな動きがある。
何かが蠢きながら、ゆるゆると流れていくのだ。

「もう夢喰観音は止まらぬ。
内裏は喰らい尽くされ、闇と沈黙の中に眠る禁忌の場所となるのだよ」

「そんな……」
「この闇で朽ちていくか、龍神の神子。
ここから出たいなら、私に慈悲を請うがいい」

そう言ってアクラムは一歩前に出た。
あかねはかぶりを振りながら、後ずさりする。

「いいだろう。それが答えならば…」
アクラムの視線が、あかねの後ろに向いた。
背中に気配を感じた瞬間、あかねはあることに思い当たる。
「無理強いなどせぬよ」

意を決して振り向くと、中空の視界一杯に巨きな目が浮かんでいる。
その目はあかねの真上まで来ると、下瞼を持ち上げて不気味な三日月の形になった。

アクラムは酷薄な笑みを浮かべたまま、あかねに背を向けた。
アクラムの纏う淡い光が消えていく。

「戦う術のないお前に、獏を浄化はできぬ。
闇に取り残され、泣き喚いて無力な己を悔やむがいい」

そしてアクラム自身も、消えた。

「娘さん、やっぱりあんた、んまそうじゃの」

後涼殿で聞いた嗄れ声が、しゅうしゅうとあかねの耳を打つ。





「う……これは…」
友雅が小さく呻いて、首元を押さえた。
「泰明殿、…宝玉が」

泰明の頬にも、異変が伝わってくる。
「神子が…助けを求めている」

泰明と友雅の眼前で、薄闇に包まれたは境界は少しずつ、
だが着実に広がりつつある。

「どうすれば…いいのだ」

高まる焦燥の中、二人の耳に、何かが聞こえてきた。
静まりかえった弘徽殿を、急ぎ足でこちらに近づいてくる小さな足音だ。

泰明ははっと顔を上げると、身を翻して西庇に飛び出す。
「永泉、こっちだ!」

「はぁはぁ…お…遅くなって…申し訳…ありま…せんでした…」
「永泉様、お一人でここまでいらしたのですか」
「そ…そうです…はぁはぁ……衛士が…門を…なかなか通してくれなくて……」

無理もない。
法親王をみすみす危険な場所に入れることなど、できるはずがないのだから。

「しかし、何とか通れたのですね」
「はい…いいえ……その…絶対になりませんと…言われてしまったので
隙を見て…忍び込みました。
後を追って来た者もいたのですが…隠れる場所は心得ておりますから」

「永泉がここまでどうやって来たかなど、問題ではない」
泰明の言葉が、友雅と永泉の話を切った。

「す…すみません。私のことばかりお話ししてしまって。
あの、神子の姿が見えないのですが…」
泰明はそれには答えず、永泉を凝視した。
「永泉、神子を助けたいか」

永泉は眼を見開き、友雅に顔を向け、その沈痛な表情を見た。
「まさか…では、先ほどから宝玉に痛みが走っているのは」

泰明は永泉の眼を見据えて、再度問う。
「神子を助けたいか、永泉。お前にしかできないのだ」

このような泰明の言い方には、永泉はもう慣れていた。
理由無くして、泰明が行動することはない。
永泉は黙って頷く。

泰明はさらに続けた。
「危険があるやもしれぬ。それでもいいか」
これは、重い決断なのだ。

だが、永泉は躊躇いなく答えた。
「はい、泰明殿」

「では、始める」
泰明は流れるような所作で、印を結んだ。

「あの…私は何をすればいいのでしょう」

「何もするな」
「は?」
「どういうことだろうか、泰明殿。
永泉様の代わりに私ではいけないのか」

「友雅ではだめだ。
神子の元に行くには、これしか方法がない。
永泉にはこれから………」





あかねの前で、巨きな目がゆらゆらと宙を漂っている。
後涼殿で見た時より、獏ははるかに巨大だ。
幻影を見せているのか、この体躯が本当なのか。
しかしここでは、その差異を問う意味はない。

手も膝も唇も、震えが止まらない。
でも、ここで屈してはだめ、と自分に言い聞かせ、
あかねはじっと耐えている。

獏はすぐには襲ってこないと分かったからだ。

獏の嗄れ声は、右に左に動きながら聞こえてくる。
あかねの周りをぐるぐると回っているのだ。

「儂の目を見ても眠らぬとは、お前さん、面倒な加護を受けておるのう。
せっかくんまそうなのに、残念じゃ」

――ここで持ちこたえれば、きっと助けが来る。
あかねは、ぎゅっと唇を噛みしめた。

「まあ、安心せい。
儂ゃあ腹は減っておるが、お前さんには噛みついたりせんでの。
何と言っても、獏には悪夢が最高じゃ。
お前さんが眠るのを待つことにするわい」

獏の声が近づき、あかねのすぐ横に来た。
「眠らぬ人間など、おらんからの」

あかねが身を縮めたその時、獏が大きな音を立てた。
空中の目の位置から、獏が鼻を鳴らしたのだと分かる。
何かに気づいたようだ。

獏はそれにとても興味を惹かれたらしく、
巨きな目が、あらぬ方を見つめている。

くぐもった笑い声を出し、獏は赤く光る長い舌を宙に向けて伸ばした。
「上物じゃ! このようにんまいものが転がっているとは!」
中空に伸びた舌の先端が虚空に消える。

次の瞬間、
「痛っ! たたたたっ!! ひいいいいっ!!」
獏は悲鳴を上げ、消えていた長い舌を大急ぎで引き戻した。
その舌を、人の影が掴んでいる。

人影は獏の舌から手を放すと、ひらりと下に飛び降り、腕を伸ばした。
無数の淡い光が蛍のように舞い上がり、
あかねの周りに柔らかな灯火を点す。

「あ……」
安堵、嬉しさ…何もかもが一気にこみあげて、声にならない。
全身から力が抜けていく。

人影が走り寄り、倒れそうになったあかねを抱きかかえた。

「神子!」
「泰明さん…」
あかねを抱く腕に、苦しいくらいの力がこもる。

「神子……大丈夫か」

泰明の胸に顔を埋め、あかねはこくりと頷いた。


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あかねちゃんは男前で、
法親王様は、ひっそりと大活躍です。
乙女は、やるときゃやるの。


2011.1.5 筆