夢喰観音 8

泰明×あかね ゲーム本編中


後涼殿の東庇に、獏の咆哮が轟く。
その周囲を桔梗印が取り囲み、大きな結界を形作っていた。

「ここだ、神子」
結界の前に、泰明がいる。
いつものように無表情で、背を真っ直ぐに伸ばして立っているが、
その姿は……

「泰明さん!! 怪我をしたんですか!?」
あかねは悲鳴にも似た声を上げた。
「泰明殿にこれほどの傷を負わせるとは…
ずいぶん手強い相手のようだね」

二人が驚くのも無理はない。
陰陽師の言葉に従って後涼殿に来てみれば、
そこで待っていた泰明はひどい有様だったのだ。

陰陽装束は肩口からざっくりと大きく裂け、
袖は破れ、裾にも幾つもの裂け目がある。
白い肩に走る傷が、酷く痛々しい。

だが、あかねと友雅の驚愕ぶりにも関わらず、
泰明は、自分の考える最も大事な事実だけを淡々と答えた。
「治療は施した。獏との戦いに支障はない」

あかねが来たからには、獏を封印することが先決。
自分が傷を負ったことなど、たいしたことではないのだ。

「でも…そんなにひどい傷で……痛くないんですか、大丈夫ですか…」
あかねの声も唇も震えている。

泰明は小さく首を傾げ、ゆっくりとまばたきした。
――私は、神子に心配をかけているのだろうか。

その考えは、苦い自責の念と奇妙に甘い疼きとを泰明の中に生み出した。

だが……神子は私のことを心配する必要はないのだ。

「私は問題ない。
今すべきは、獏を封ずることだ」
泰明は素っ気なく言うと、獏に向き直った。

光の中にうずくまった獣が、むくりと起き上がる。
その喉から奇妙な音が漏れ、獏は嗄れた声で言った。
「弱そうな加勢じゃのう」

あかねと友雅が息を呑んだ。
獏が言葉を操ることは泰明から聞いていたが、
やはり実際に眼にすると、驚きを隠せない。

獏は目を細めて、新たに加わった二人を見た。
「じゃが、不味そうな陰陽師の面には飽いておったところじゃ。
そっちの貴族は、そこそこの味といったところかの。
そして…」
獏は長い舌をあかねに向けて伸ばした。
「昨日見た時から、あんたのことが気になっておったのじゃよ。
んまそうな娘さん」

「い…いや…」
あかねが身を縮めて後ずさりするより早く、泰明の術が獏を撃った。
「神子殿、君は下がっていた方がいい」
友雅が、あかねを後ろにかばう。

獏はばりばりと全身の毛を逆立てた。
「ほほう、陰陽師はこの娘を待っていたのか」

泰明は獏に向けて印を結んだ。
「神子、獏は結界を破るかもしれない。やつの動きは常に注意していろ。
友雅、やつの目は絶対に見るな」
「はい!」
「眠らされるのはごめんだからね」

泰明と友雅の攻撃が相次いで獏を撃った。
しかし獏は太い前足で術を弾き、図体に似合わぬ速さで身をかわした。
攻撃は当たっても、獏は弱る気配がない。

少しずつ気力を削りながらの持久戦になるか…
そう思われた時だ。

ふいに、獏の姿が消えた。
辺りに突然静寂が落ち、結界の中は青い光が照らすばかり。

一瞬攻撃の手を止めた泰明の眼が、奥の床に空いた黒い穴を捉えた。
「逃げたか」

その刹那、三人の真下で凄まじい気が走った。

床板がめくれ上がり、あかねの眼前に獏の前足が突き出される。
「神子!」
「神子殿!」

友雅が抜刀と同時にあかねの腕を掴んだ。
泰明に向かってあかねを押しやる反動で身体を回し、
獏の腕を横真一文字に薙ぎ払う。
泰明は身体ごと飛び込んで、足をもつれさせたあかねを受け止め、
腕を支えに体勢を立て直しながら術を放った。

ぐおおぉぉっ!!
予期せぬ素早い反撃に、獏は一声唸ると前足を引っ込めた。
床下を、獏の気配が遠ざかっていく。
だが、泰明も友雅も獏を追おうとはしなかった。

泰明に支えられたまま、あかねは足をがくがくと震わせている。
「神子殿、歩けるかい。無理はしない方がいい」
「門の外まで送る。神子、お前はここから離れていろ」

「…い…いいえ……」
あかねは蚊の鳴くような声で言った。

「獏は神子殿を狙ってきたのだよ。やつは狡猾だ。
これ以上君を危険にさらすわけにはいかない。
泰明殿、獏を調伏してはもらえまいか」
「分かった。そうしよう」

「だめ…だめです」
あかねは蒼白な顔を上げ、きっぱりと言った。
「封印しなければ、また誰かが襲われます。
私も、一緒に行かせて下さい」

そして泰明の腕をそっと外すと、震える膝に手を置き、
大きく深呼吸して真っ直ぐに立ち上がる。

「私なら、もう大丈夫です。早く獏を追いかけましょう」
血の気の失せた白い頬のまま、あかねはにっこり笑った。





後宮は昼日中というのに薄闇に包まれている。
いつ獏が襲ってくるかもしれない、という緊張感と相まって、
その暗さは、宇治殿よりもさらに重苦しく陰鬱だ。

あかねに合わせてゆっくりと歩を進めながら、
泰明は、あかね達と合流するまでの経緯を簡潔に語った。

帝が襲われかかったこと。
一時は獏を押さえたが、逃げられたこと。
獏の漏らした言葉から、幾つかの手がかりを得たこと。
逃げた獏が、後宮から泰明を遠ざけるように動くであろうと読み、
後涼殿に追い込んで、仕込んでおいた結界に捕らえたこと。
兄弟子達に式神を打ち、自分の居場所を報せたこと…。

泰明の得た手がかりを元に、三人は有力な女御、中宮の殿舎から調べることにした。
友雅が道案内の役を担う。
後宮での力関係はもちろんのこと、入り組んだ御殿の配置や内部の造りに関しても、
友雅はとても詳しく、泰明が呪符の切片を通して見た場所を、
部屋の調度や特徴からすぐに特定することができた。

「すごいですね友雅さん。さすがです」
「神子殿の言葉、素直に喜ばせて頂くよ」

あかねに笑顔を向けた友雅は、すぐに真顔になった。
「ところで泰明殿、気になっているのだが…」
「何だ、友雅」
「獏と観音像の関係なのだが、確か獏は像に取り憑いて住処としているのだったね。
だが、あの獏の様子を見ていると、自分の住処を守ろうとしているだけでは
ないような気がするのだよ」

「私も、そんな気がします」
あかねも小さく頷いた。
「獏が内裏の人達を襲ったのは、
観音像を見つけられそうになったから、ですよね。
でも、それが不思議なんです。
なぜ獏は像を持って逃げなかったんでしょう。
あの獏なら、小さな像を運ぶくらいできるはずなのに、
内裏から出ないで暴れて逃げ回っているなんて」

「私も昨日までは、獏は住処を守ろうとしているのだと考えていた。
像を攻撃しようとした時の狼狽ぶりはその証とも取れる。
だが同時に、微かな違和感を覚えていたことも事実だ」

泰明は鋭い眼で回廊の先を見据えながら続けた。
「獏が内裏に留まっている理由の一つは、やつ自身が言っていた。
高貴な血筋の生気を好むのだと」
友雅が低く呟く。
「内裏は格好の餌場…というわけか。虫酸が走るよ。
だが、他にも理由があるのだね」

泰明は頷いた。
「確証はないが、こう考えれば説明がつく。
獏は、観音像から離れることができない。
そして、自ら観音像を動かすこともできない…と」

「つまり、獏と像とは一体ということかな。
獏は内裏から逃げないのではなく、逃げられない、というわけだね」
「獏は夢と現のあわいに在る妖異。
だが現で攻撃を受けても、獏が逃げる先は観音像の中だ。なぜなら…」

「逃げる場所が、そこしかないから…ですか」
「それならば獏と戦うよりも、観音像に逃げ込んだ所を…
いや、それをさせぬために獏は暴れているのだったね」

「観音像が厨子に封印されていた間、獏もまた像の中にいたのだ。
夢と現を行き来できるなら、そこから逃げ出すことなど容易かったはず」

その時ちょうど三人は弘徽殿の前に着いた。
辺りを包む夕暮れのような暗さと、どこからか流れ来る瘴気の息苦しさ。

――観音像が近いのかな。
あかねは唇をぎゅっと噛みしめ、震えを押さえた。

門を潜り階を上がって御殿に入る。
南北に長い弘徽殿は、薄暗さと相まって奥を見通すことができない。
庭に沿って南の庇を行き、細い回廊のような西の庇へ。

重苦しい静寂と、足元も覚束ない暗さ。
あかねには、泰明と友雅の存在が心強い。

――だが、周囲の景色が揺らめくのはなぜだろう。

「泰明さん、何だか様子が…」
その言葉を口にした瞬間、

闇が落ちた。





何も見えない。
音も聞こえない。
ねっとりと濃密な闇だけがある。

あかねは一人、闇に閉じこめられていた。

京に来て、夜の闇の深さを初めて知ったあかねだ。
それは魑魅魍魎や怨霊の跋扈する底知れぬ闇。

だがこれまでは、どんな時にも一人ではなかった。
藤姫の館では、呼べば必ず誰かが来てくれた。
怨霊と対峙した時も、隣に八葉がいた。

今は……

手を伸ばしても、何にも触れない。
二人の名を叫んでも、声は闇に吸い込まれるだけ。
答えは返ってこない。

「泰明さん…友雅さん…」
それでもあかねは、呼び続ける。
声を出していないと、自分自身の存在までも闇に溶け入りそうだから。

ここはどこなの…。
さっきまで細い廊下にいたのに…
どうして……

足を前に踏み出してみるが、動いた感覚がない。
足下にあるはずの床に触れても、そこには固さも温度も感じられない。

あかねはうずくまった。
自分の腕に触れる自分の身体が、ただ一つの確かなもの。

その時

「闇が怖いか、龍神の神子」
頭上から、甘く低く、氷よりも冷ややかな声が降ってきた。

はっとして顔を上げると、白い仮面が宙に浮かんでいる。
「アク…ラム……」

「私の名を呼ぶか、神子」

仮面の周りに淡い光が広がった。
闇の中に唯一の光を纏い、鬼の首領があかねを見下ろしている。

あかねは弾かれたように立ち上がった。
「なぜ、あなたが…」
「言ったはずだ。また会おう、と」
「ここは、どこなの」
「声が震えているぞ、神子。怯えながら、それでも問うのか」
「教えて、アクラム」
「その代償に、お前は何を差し出す」
「…教えて……」
「強気だな、神子」

アクラムは一歩前に出た。
あかねは動けない。

アクラムの指があかねの頤を掴んでぐいと仰向ける。
白い仮面が近づき、眼前で止まった。

「ここは観音像の中だ、龍神の神子」

「観音像の…?」
思いもかけぬ言葉に、あかねはあえいだ。

アクラムの唇に、冷たい笑みが浮かぶ。

「ここは内裏に在って内裏に非ず。
お前は喰われたのだよ……夢喰観音に」


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山場に突入しました。
完結までもう少しです。
がんばります!!


2010.12.26 筆