夢喰観音 2

泰明×あかね ゲーム本編中


翌朝、暁の色が東の山頂を染めるより早く、
宇治殿の西の対には、家人達が次々と集まってきていた。

「どうなされた、こんなに早く…ふあぁぁ」
「それはお互い様ではないか…あふぁふぅ」
「おや、これはお早いことで…うつらうつら」
「皆さんお揃いで一体……ぐがっぐぅぅ…」
彼らは皆、とても眠そうだ。そして一様に顔色が悪い。

そこへ、生あくびをしながら家令が足早にやって来た。
家人達に驚いて立ち止まったその顔は青白く、目はしょぼしょぼとして赤い。
その原因は、嵐の後始末に追われた疲れのためばかりではなさそうだ。

家令の周りを皆が取り囲む。
「昨日運び込まれたという厨子の話は真ですか?」
「中には夢違観音様が祀られているそうだが」
「何とかして、お参りできないものだろうか」
「私も!」
「ぜひこの私めも!!」

全員が一斉に同じ事を口にして、互いに顔を見合わせる。
そしてここに集まった目的は皆同じと分かると、今度は一斉に首をひねった。
家令がここに来たのも同様の理由だ。

――悪夢。

ここにいる者は皆、生々しくも怖ろしい夢を見たのだ。
冷たい汗を流しながら夜中に目覚めた後は、もう眠れたものではなかった。
あれは何を意味しているのか…もしも正夢であったなら…。

その時ふと思い浮かんだのが、蔵から見つかった夢違観音だ。

同じ呼び名を持つ観音像のことは広く知られている。
斑鳩の古い寺におわす夢違観音の名の由来は、
悪夢をよき夢へと変えてくれるからだという。

あの厨子にも、同じく霊験あらたかな観音様が祀られているに違いない。
だからこそ、厨子にも「夢違観音」と書かれたのだろう。
扉が開かず、姿を直接拝むことができなくても、
お参りすれば御利益があるかもしれない。
いや、あってほしい――。
皆の願いは一つだ。

しかし、塗籠に燭台が持ち込まれ、ほんのりとした光が灯された瞬間、
部屋に入った者達は腰を抜かさんばかりに驚いた。

厨子の扉が開いているのだ。
昨日、あれほど頑強に動かなかった閂が、いつの間に外れたのか。

しかし、皆が一様に抱いた疑念は、厨子の奥に佇む観音像を見るなり消え失せた。

揺らめく灯火が照らし出したのは、いとも優美な姿。
柔らかな輪郭を描いて微笑む唇は、今にも動いて言の葉を紡ぐかと思えるほど。

「おおお…」
「何と美しい観音様じゃ」
「このお姿を拝むだけで、怖ろしい気持ちが慰められるというもの」

想像を遙かに超える尊い姿に驚き、皆両手を合わせて一心に拝み出す。

床に落ちた朱塗の棒は陰の中に沈み、
魔除けの色が褪せたことに気づく者はいなかった。





「おはようございます、神子様」
「おはよう、藤姫! …ん?」

いつものように朝の挨拶を交わした時、
あかねは藤姫の笑顔が翳っていることに気づいた。

「どうしたの、何かあったの?」

藤姫は大きな瞳を見開いたが、健気に笑って頭を振る。
「ありがとうございます、神子様。
優しい言葉をかけて頂いて、
それだけで私、とてもうれしい気持ちになりました」

しかしそれで納得するあかねではない。
「藤姫、心配事があるなら、ちゃんと話して。
黙っていても何も解決しないと思う」

「その通りだ。黙っていたら、神子が呪詛浄化に集中できない」
庭から無愛想な声が割り込んだ。

「や、泰明さん」
「泰明殿…控えの間でお待ち頂いているはずでは」
「いつもより長く待っていた」
藤姫の声に滲む非難の色を意に介さず、泰明は素っ気ない口調で答える。
そして軽々と高欄を跳び越え、簀の子に降り立った。
「待つのは問題ない。だが、今日の土御門には落ち着かぬ気がざわめいている。
それが神子に関することかどうか、早く確かめるべきだと考えた。
理由はそれだけだ」

「泰明さん、すごいです。そんなことまで分かるんですか」
「分かるが、すごくはない。
だが今は、私の話ではなく藤姫の話を聞くべきだ」

「そうですね」
あかねは頷き、藤姫に向き直った。
「話してみて、藤姫。何か力になれることがあるかもしれない」

藤姫は小さな安堵のため息をつくと、両手の指を組んで話し始めた。
その話というのは――
宇治の別荘に行っていた田鶴君が、原因不明の病で伏せったこと。
昏睡状態が続いていること。
今日、宇治から土御門に運ばれてくること。
名高い僧を呼んで、大がかりな加持祈祷が行われる予定であること等々。

「宇治殿の家人の中にも、具合の悪い者が少なからずいるようで、
父上はとても案じています」
そこまで無表情のまま話を聞いていた泰明の眼が、鋭い光を帯びた。
「それは、いつからだ。田鶴が滞在する前か後か」
「同じ頃、と聞いております。そしてその前日に…」
藤姫は言い淀んだ。

「どうしたの? 気になること?」
あかねが尋ねると、藤姫は困ったように声を潜めた。
「大風で壊れた蔵から、観音様を納めた厨子が屋敷に運び込まれたのです。
けれど不思議なことに、扉には閂がかけられていて、
誰も開けることができなかったそうです。それが……」

「それはどのような閂だ」
泰明の問いに、藤姫は首を傾げる。
「すみません、そこまでは…」
泰明は、自分の問いかけで中断した藤姫の言葉を、自ら補った。
「その後、開かぬはずの扉が開いた、というのか」
藤姫は息を呑み、黙って頷いた。

「本当に不思議…。何があったんだろう。
でも厨子の扉が開いたことと、みんなの具合が悪くなったことと関係あるのかな」
「仮にも、御仏の像が関わるなど…」

少々混乱気味のあかねと藤姫の会話を、泰明の言葉が断ち切った。
「神子、今日は宇治に行く。少し遠出になるが、いいか」

「は…はい」
あかねは咄嗟に返事をしていた。
どんなに唐突に思えることでも、
考えもなく泰明が何かを口にすることはないのだから。

泰明は少しの間思案するようにあかねを見つめ、言葉を次いだ。
「…だが、お前の足には遠すぎるか。馬を借りる、藤姫」
そして再び、ひらりと庭に飛び下りる。

「え? でも、呪詛の浄化を…」
「この一件には鬼が関わっている」
「どうして分かるんですか」
「閂は、厨子を開けぬための封印だ」
「仏像に封印を? なぜそんなことを」
「分からないのか、神子。時間がない。急げ」
そう言うと泰明はあかねにくるりと背を向け、表門に向かって歩き出した。

「え? 時間がないってどういう……」
去っていく背に向かって問いかけた言葉が、途切れる。
泰明が当然のように考えていることが、自分には全く分からない。
あきれられてしまったのだろうか。

あかねはしょんぼりとして謝った。
「すみません…急ぎます」

泰明の足が、ぴたりと止まる。
ゆっくり振り返ると、うなだれて悲しそうなあかねがいる。

泰明の胸に、引き裂かれるように大きな痛みが走った。

神子を…私は悲しませてしまったのか。
お前は悪くない。
私はお前を…責めてはいない。

だが私の言葉は、神子の心を傷つけた。

「すまぬ…神子」
喉元で、詫びの言葉がかすれた。
小さなその声は、あかねに届かない。

私は……どうすればよいのか。

惑いながら、泰明はおおずおずと小さく微笑んでみた。
するとあかねはほっと息をつき、その顔に花のような笑みが零れる。

その花を散らさぬよう、泰明は、そっと言葉をかけた。
「案ずるな、神子。理由は道々話す」

「ありがとう、泰明さん」
返ってきたのは、眩い笑顔。

神子の笑顔がまぶしいのは、なぜだろう……。
朝の陽が照らしているからか。
それとも、清浄な気が輝いているせいだろうか。





同じ頃、田鶴君を乗せた牛車が宇治殿を発った。

東の山から吹き下ろし、鏡のように凪いだ巨椋池へと吹き渡る風は
初夏のさわやかな薫りに満ちている。

だが牛車の中は暗く、田鶴君に付き添う女房と家人も沈鬱な面持ちだ。
二人の顔には疲労が色濃く刻まれ、気を張っているというのに、
心労続きのためか、時折うつらうつらと眠り込んでは、
はっと目を覚ますという繰り返し。

ごとごとと揺れながら、牛車は京への街道を行く。
途中、なぜか道が大きく崩れ、大回りを余儀なくされたが、
それでも陽の高い内に洛中に入ることができた。
永遠に続くかと思われた辛い牛車の道中から解放され、
家人と女房は安堵の吐息を漏らす。

しかし、まだ小さな田鶴君は、
うんうんとうなされながら目覚める気配もない。


一方、田鶴君を乗せた牛車とすれ違わないことを不思議に思いながら、
あかね、泰明、頼久の三人は宇治殿に到着した。

途中に道が崩れている所などは無く、当然のように最短の道を進んできた。
牛車と出会わなかったのは、田鶴君への負担を軽くするため、
異なる経路を選んだからだろうと、あかねは思い、
泰明と頼久もそのように考えていた。

館に一歩、足を踏み入れるまでは……。


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少しずつ話が動いてきました。
次回で大きく展開……したいなあ。
引き続き、お読みいただければ幸いです。


2010.10.29 筆