翌朝、暁の色が東の山頂を染めるより早く、
宇治殿の西の対には、家人達が次々と集まってきていた。
「どうなされた、こんなに早く…ふあぁぁ」
「それはお互い様ではないか…あふぁふぅ」
「おや、これはお早いことで…うつらうつら」
「皆さんお揃いで一体……ぐがっぐぅぅ…」
彼らは皆、とても眠そうだ。そして一様に顔色が悪い。
そこへ、生あくびをしながら家令が足早にやって来た。
家人達に驚いて立ち止まったその顔は青白く、目はしょぼしょぼとして赤い。
その原因は、嵐の後始末に追われた疲れのためばかりではなさそうだ。
家令の周りを皆が取り囲む。
「昨日運び込まれたという厨子の話は真ですか?」
「中には夢違観音様が祀られているそうだが」
「何とかして、お参りできないものだろうか」
「私も!」
「ぜひこの私めも!!」
全員が一斉に同じ事を口にして、互いに顔を見合わせる。
そしてここに集まった目的は皆同じと分かると、今度は一斉に首をひねった。
家令がここに来たのも同様の理由だ。
――悪夢。
ここにいる者は皆、生々しくも怖ろしい夢を見たのだ。
冷たい汗を流しながら夜中に目覚めた後は、もう眠れたものではなかった。
あれは何を意味しているのか…もしも正夢であったなら…。
その時ふと思い浮かんだのが、蔵から見つかった夢違観音だ。
同じ呼び名を持つ観音像のことは広く知られている。
斑鳩の古い寺におわす夢違観音の名の由来は、
悪夢をよき夢へと変えてくれるからだという。
あの厨子にも、同じく霊験あらたかな観音様が祀られているに違いない。
だからこそ、厨子にも「夢違観音」と書かれたのだろう。
扉が開かず、姿を直接拝むことができなくても、
お参りすれば御利益があるかもしれない。
いや、あってほしい――。
皆の願いは一つだ。
しかし、塗籠に燭台が持ち込まれ、ほんのりとした光が灯された瞬間、
部屋に入った者達は腰を抜かさんばかりに驚いた。
厨子の扉が開いているのだ。
昨日、あれほど頑強に動かなかった閂が、いつの間に外れたのか。
しかし、皆が一様に抱いた疑念は、厨子の奥に佇む観音像を見るなり消え失せた。
揺らめく灯火が照らし出したのは、いとも優美な姿。
柔らかな輪郭を描いて微笑む唇は、今にも動いて言の葉を紡ぐかと思えるほど。
「おおお…」
「何と美しい観音様じゃ」
「このお姿を拝むだけで、怖ろしい気持ちが慰められるというもの」
想像を遙かに超える尊い姿に驚き、皆両手を合わせて一心に拝み出す。
床に落ちた朱塗の棒は陰の中に沈み、
魔除けの色が褪せたことに気づく者はいなかった。
「おはようございます、神子様」
「おはよう、藤姫! …ん?」
いつものように朝の挨拶を交わした時、
あかねは藤姫の笑顔が翳っていることに気づいた。
「どうしたの、何かあったの?」
藤姫は大きな瞳を見開いたが、健気に笑って頭を振る。
「ありがとうございます、神子様。
優しい言葉をかけて頂いて、
それだけで私、とてもうれしい気持ちになりました」
しかしそれで納得するあかねではない。
「藤姫、心配事があるなら、ちゃんと話して。
黙っていても何も解決しないと思う」
「その通りだ。黙っていたら、神子が呪詛浄化に集中できない」
庭から無愛想な声が割り込んだ。
「や、泰明さん」
「泰明殿…控えの間でお待ち頂いているはずでは」
「いつもより長く待っていた」
藤姫の声に滲む非難の色を意に介さず、泰明は素っ気ない口調で答える。
そして軽々と高欄を跳び越え、簀の子に降り立った。
「待つのは問題ない。だが、今日の土御門には落ち着かぬ気がざわめいている。
それが神子に関することかどうか、早く確かめるべきだと考えた。
理由はそれだけだ」
「泰明さん、すごいです。そんなことまで分かるんですか」
「分かるが、すごくはない。
だが今は、私の話ではなく藤姫の話を聞くべきだ」
「そうですね」
あかねは頷き、藤姫に向き直った。
「話してみて、藤姫。何か力になれることがあるかもしれない」
藤姫は小さな安堵のため息をつくと、両手の指を組んで話し始めた。
その話というのは――
宇治の別荘に行っていた田鶴君が、原因不明の病で伏せったこと。
昏睡状態が続いていること。
今日、宇治から土御門に運ばれてくること。
名高い僧を呼んで、大がかりな加持祈祷が行われる予定であること等々。
「宇治殿の家人の中にも、具合の悪い者が少なからずいるようで、
父上はとても案じています」
そこまで無表情のまま話を聞いていた泰明の眼が、鋭い光を帯びた。
「それは、いつからだ。田鶴が滞在する前か後か」
「同じ頃、と聞いております。そしてその前日に…」
藤姫は言い淀んだ。
「どうしたの? 気になること?」
あかねが尋ねると、藤姫は困ったように声を潜めた。
「大風で壊れた蔵から、観音様を納めた厨子が屋敷に運び込まれたのです。
けれど不思議なことに、扉には閂がかけられていて、
誰も開けることができなかったそうです。それが……」
「それはどのような閂だ」
泰明の問いに、藤姫は首を傾げる。
「すみません、そこまでは…」
泰明は、自分の問いかけで中断した藤姫の言葉を、自ら補った。
「その後、開かぬはずの扉が開いた、というのか」
藤姫は息を呑み、黙って頷いた。
「本当に不思議…。何があったんだろう。
でも厨子の扉が開いたことと、みんなの具合が悪くなったことと関係あるのかな」
「仮にも、御仏の像が関わるなど…」
少々混乱気味のあかねと藤姫の会話を、泰明の言葉が断ち切った。
「神子、今日は宇治に行く。少し遠出になるが、いいか」
「は…はい」
あかねは咄嗟に返事をしていた。
どんなに唐突に思えることでも、
考えもなく泰明が何かを口にすることはないのだから。
泰明は少しの間思案するようにあかねを見つめ、言葉を次いだ。
「…だが、お前の足には遠すぎるか。馬を借りる、藤姫」
そして再び、ひらりと庭に飛び下りる。
「え? でも、呪詛の浄化を…」
「この一件には鬼が関わっている」
「どうして分かるんですか」
「閂は、厨子を開けぬための封印だ」
「仏像に封印を? なぜそんなことを」
「分からないのか、神子。時間がない。急げ」
そう言うと泰明はあかねにくるりと背を向け、表門に向かって歩き出した。
「え? 時間がないってどういう……」
去っていく背に向かって問いかけた言葉が、途切れる。
泰明が当然のように考えていることが、自分には全く分からない。
あきれられてしまったのだろうか。
あかねはしょんぼりとして謝った。
「すみません…急ぎます」
泰明の足が、ぴたりと止まる。
ゆっくり振り返ると、うなだれて悲しそうなあかねがいる。
泰明の胸に、引き裂かれるように大きな痛みが走った。
神子を…私は悲しませてしまったのか。
お前は悪くない。
私はお前を…責めてはいない。
だが私の言葉は、神子の心を傷つけた。
「すまぬ…神子」
喉元で、詫びの言葉がかすれた。
小さなその声は、あかねに届かない。
私は……どうすればよいのか。
惑いながら、泰明はおおずおずと小さく微笑んでみた。
するとあかねはほっと息をつき、その顔に花のような笑みが零れる。
その花を散らさぬよう、泰明は、そっと言葉をかけた。
「案ずるな、神子。理由は道々話す」
「ありがとう、泰明さん」
返ってきたのは、眩い笑顔。
神子の笑顔がまぶしいのは、なぜだろう……。
朝の陽が照らしているからか。
それとも、清浄な気が輝いているせいだろうか。
同じ頃、田鶴君を乗せた牛車が宇治殿を発った。
東の山から吹き下ろし、鏡のように凪いだ巨椋池へと吹き渡る風は
初夏のさわやかな薫りに満ちている。
だが牛車の中は暗く、田鶴君に付き添う女房と家人も沈鬱な面持ちだ。
二人の顔には疲労が色濃く刻まれ、気を張っているというのに、
心労続きのためか、時折うつらうつらと眠り込んでは、
はっと目を覚ますという繰り返し。
ごとごとと揺れながら、牛車は京への街道を行く。
途中、なぜか道が大きく崩れ、大回りを余儀なくされたが、
それでも陽の高い内に洛中に入ることができた。
永遠に続くかと思われた辛い牛車の道中から解放され、
家人と女房は安堵の吐息を漏らす。
しかし、まだ小さな田鶴君は、
うんうんとうなされながら目覚める気配もない。
一方、田鶴君を乗せた牛車とすれ違わないことを不思議に思いながら、
あかね、泰明、頼久の三人は宇治殿に到着した。
途中に道が崩れている所などは無く、当然のように最短の道を進んできた。
牛車と出会わなかったのは、田鶴君への負担を軽くするため、
異なる経路を選んだからだろうと、あかねは思い、
泰明と頼久もそのように考えていた。
館に一歩、足を踏み入れるまでは……。
夢喰観音
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少しずつ話が動いてきました。
次回で大きく展開……したいなあ。
引き続き、お読みいただければ幸いです。
2010.10.29 筆