雪逢瀬 〜10〜

  


主のいない家の中は、ひっそりと静まりかえっていた。
締め切った部屋の空気は、冷たく淀んでいる。

暗がりの中、周囲を見渡したあかねは、思わず身震いした。
たった数日間のことなのに……。

しかし、やりきれないそんな気持ちを、わざと元気よく動いて振り払う。

こうして家の様子を見に来るのも、無理を言って頼みこんだ末のこと。
そのあげくに元気を無くしていたのでは、自分の気持ちを思いやってくれた藤姫にも、
左大臣警護の任を休んでまで、護衛についてきてくれた頼久にも、悪いというものだ。

あかねは小走りに全ての扉を開き、蔀戸を上げていく。
屋内に風が通り、柔らかな陽射しが射し込んだ。

明るくなったところで見ると、蔀格子にうっすらと埃があるのに気づく。
それを払いながら、あかねは離れの間に入った。

そこは泰明の仕事場、あかねがめったに足を踏み入れない場所だ。

泰明がいる時には、部屋中に巻物やら式盤などの道具が、
空中に浮遊しているのが常のこと。
そして、泰明が腕を伸ばすと、ついっと糸で引かれるように
その手の中に入っていくのだ。

それらの道具も、今は壁に作りつけた棚に、整然と収まっている。
異変はない。

あかねは、ふっと息を吐き出すと、静かに戸を閉めた。

晴れた日とはいえ、今は冬。
床の冷たさが、足に伝わり、全身が冷えていく。

あかねは手に息をかけながら、最後に寝間の扉を開けた。

窓のない部屋は、くっきりと境界線を引かれた昼と夜のように、
光の当たった一画ばかりが明るい。

外光に慣れた目には、部屋の奥は真の闇。
だがあかねは、そこにあるものを知っている。

二階棚の下段に乗せた 打乱筥(うちみだればこ)
その中には、すぐに着られるようにと、丁寧にたたんだ泰明の着物がある。

あかねは膝をつき、筥をそっと取り出した。
泰明の着物に、手を滑らせる。
部屋と同じく、冷え切った感触。

手に取り、胸に抱きしめ、頬ずりする。
顔を埋めると、焚きしめた香の残り香がある。
その微かな香に、熱いものがこみ上げてきて、むせぶ。

あかねは、目をごしごしとこすった。
…泣かないって、決めたんだ。
だって……泰明さんは、今、この瞬間も、きっと必死で頑張ってる。
だから私は、泣いてなんかいられない。


あの夜、泰明と交わした他愛もない会話が、今は、とても愛しい。

「京の雪……山も街も、真っ白になって…きれいでしょうね。
雪だるま、作りたいなあ」
「ゆきだるま?」
「楽しいですよ。一緒に作りましょうね」
「わかった」

「泰明さんは、あまり雪が好きじゃないんですか?
たくさん降ると、きれいだなんて暢気なこと、言っていられないからですか?」

「いや、私は……そのように考えたことはなかった。
枯葉が散り、冬が来て、やがて雪が降るのは自然の理だ」
「うーん、確かにそうですけど…」

「この身が造られて、初めて雪を見た夜のことを覚えている。
一晩中、降りしきる雪を、ただ見ていた。
心を持たぬ私は、寒い…と感じなかった。
美しい…とも感じなかった。
ただ、世界の有り様を記憶に留めおくために、見ていた」

「泰明さん……」

「だが今、私は心を持ち、理の中に在る。
巡る季節、自然の理の美しさを、お前と共に感じることは、この上もない喜びだ。
だから、お前と一緒に清浄なる雪を見たいと思う。
きっと、寒くはない。
お前とあたたかなぬくもりを、分かち合えるのだから」

「じゃあ、約束しましょう。
雪だるま、一緒に作りましょうね」
「わかった」

「ふふっ、これって、さっきの話の繰り返しみたい」
「そうだな、だが、神子の言の葉を耳にしているだけで、
私はとても、心地よい。そして…」
「泰明さ…ん…」



小鳥がさえずりながら枝から飛び立った。
穏やかな陽射しが、小さな家の庭に降り注いでいる。

あかねが家に入るのを見届けた後、油断なく周囲を警戒していた頼久は、
門を開く音に、反射的に剣に手をかけた。
が、すぐにその手を離し、頭を下げる。

「今日はまた、ずいぶんと長閑な日だね」
友雅だった。
庭に入って来るなり、天気に負けぬほどのんびりとしたことを言う。
「はい」
顔を上げるとすぐに、頼久は元のように警護の態勢に戻った。

「連日の出仕は疲れるものだね」
「重大な責務と、伺っております」
「私らしくもないことを続けていると、
どうにも愛らしい姫君の顔を見たくなってね。
土御門に立ち寄ったのだが、こちらだと伺ったのだよ」
「すぐに戻るからとの、神子殿のたってのご希望でございましたので」

家の中からは、ばたんばたん、という音に混じり、
軽やかな足音が聞こえてくる。

「にぎやかに動きまわっているようだね」
「はい。やはり神子殿にとっては、ご自分の家……」
頼久の言葉が途切れた。
友雅も、無言になる。

にぎやかだった屋内の音が、止んだ。
小鳥の鳴き交わす声だけが、遠くから風に運ばれてくる。
静寂の支配する庭には、冬の静かな陽が、うらうらと射すばかり。

宝玉がその身から消えたとて、人の心に結ばれた絆は、消えることはない。
二人の男は、同じ思いを抱きながら、小さな家を見やった。


ほどなくして、次々と勢いよく蔀戸が閉じられた。

「お待たせしました、頼久さん!」
中から、明るい笑顔であかねが出てくる。
「あ、友雅さん、いらしてたんですね。こんにちは!」
元気よく挨拶して、扉を閉める。


「神子殿のがんばりには、いつも感嘆したものだが、
今はそれが、かえって痛々しいのだよ」
友雅が、頼久にだけ聞こえる低い声で言った。

「歯がゆいものだね。祈ることしかできない、というのは」
「はい…」
頼久も、小さく答えた。






「次から次へと、やってくれるじゃねえか」
洞宣が唸った。

「これも、あの晴咒とやらの仕業でしょうか」
そう言う長任の手には、札がある。

障気の沼を抜けた途端、一行は、怨霊の群に囲まれていた。

「ひぃぃぃぃっ…!
おおおお怨霊って、こんなに恐いものだったんですか?!」
浅茅の声は震えている。

「おお、浅茅!怨霊が見えるようになったんだな。
大した進歩だ!」
「はひっ、恐いけど、うれしいですっ!」
「喜んでる場合じゃねえ!
陰陽師が、怨霊を恐がってどうする!」
「でででも、数が多すぎます」

「いずれにしても、ここを抜けない限り、晴咒の元には辿り着けない」
泰明が、術を放った。

キシャァァァ!!
グッギギ…ギ…!!
怨霊の一群が吹き払われる。

「よし!今の内だ」

しかし、彼らが駆け抜けるよりも早く、次の怨霊が群を成して現れた。

その向こう、黒い岩壁の裂け目から、不気味な鼓動が聞こえてきた。
時と共に強さを増し、洞窟の中に響き渡る。

「この音は…あの晴咒ってやつか」
「はい…」
「力を集中させている。
最後の攻撃を放とうとしているのだろう」
「くそっ、何とか止めねえと」

どくん!…ひときわ大きな鼓動が響く。
それを合図にしたかのように、怨霊達は一斉に襲いかかってきた。




次へ






雪逢瀬

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18]




[小説トップへ]