「ひぃぃぃぃっ…!!!」
浅茅は頭を抱えてうずくまった。
怨霊達に襲われると思ったのだ。
しかし、何も起こらない。
「立て。走るぞ」
泰明の声が、上から降ってくる。
「え…?あ!!」
浅茅が顔を上げると、怨霊の群は、皆に襲いかかろうと腕を振り上げ、
牙を剥きだしたまま、凍り付いたように動かない。
「怨霊の動きを止めた。
だが術の効果はすぐに切れる。急げ」
「は、はいっ!」
四人は、怨霊の間を縫うように走った。
動きは止まっていても、怨霊から発する障気は、沼地以上に濃密だ。
息が詰まり、力が抜けて行く。
しかし、目指す岩壁に辿り着くまでは倒れられない。
一歩、さらに一歩。
どくん!!
彼らの苦しみを嘲笑うかのように、地鳴りのような鼓動が響いた。
ギ…
グ…ギギ…
一斉に怨霊達が動き出す。
眼前に立ちはだかったひときわ巨きな怨霊が、鋭い鈎爪を振り下ろした。
咄嗟に避けるが、そこにも怨霊がいる。
一瞬、動きが止まったところに、怨霊が長い尾を一振りした。
洞宣と長任は弾き飛ばされ、泰明は最小限の動きでかわした。
浅茅は幸いと言うべきか、別の怨霊に高々と持ち上げられていて、
直撃だけは避けられた。
泰明の術が、その怨霊の腕を撃つ。
ボトッと地面に落とされた浅茅は、
歯をがちがちと鳴らしながら泰明に駆け寄った。
涙も鼻水も、もう出尽くしてしまったようだ。
どくん!!!
壁の裂け目から、暗く赤い光が漏れ出る。
「もう時間がねえ!
泰明!浅茅を連れて先に行け!」
弾き飛ばされた洞宣が、遠くから叫んだ。
「私と洞宣殿で、道を開く!」
長任が、少し離れた所で印を結んだ。
「……分かった。よい判断だ……」
泰明は、浅茅を肩に担ぎ上げた。
「ひぇっ!…ぼ、ぼく、走れます…」
「お前の足では、追いつかれる。
洞宣達の働きを無駄にするな」
「あ……でも、二人は…」
浅茅は顔を上げて洞宣と長任を見た。
「心配するな!怨霊の調伏は、いつもやっている仕事だ!」
「大丈夫だ。嫁御が待っている!」
「ふ…ふぇぇぇん…そんな……」
「行くぜ!!機を逃すなよ!!」
洞宣の術が、地を撃った。
ぐおっと、周囲の地面が揺れる。
洞宣得意の力技だ。
怨霊の動きが大きく乱れる。
洞宣が術を放つと同時に、泰明は走り出していた。
行く手に立ち塞がる怨霊が、
泰明の駆け抜ける刹那、次々と動きを止める。
長任の術だ。
「うわあっ!やっぱりすごいですね!!」
感嘆した浅茅だったが、すぐに気づく。
自分たちの援護にまわっている間、二人が無防備であることに。
キシャアアアア!!!
ギギッ!!
二人の姿は、怨霊の群の向こうに隠れ、見えない。
ぐっ、と浅茅が歯を食いしばった時、その身体が空中に飛んだ。
岩壁に向かって、泰明が思いきり投げたのだ。
「わあああっ!!」
「壁に掴まれ!」
「投げる前に言って下さひぃぃぃっ」
「そうだったな」
ごつっ!と、おでこをぶつけながらも、浅茅は何とか岩壁に張りついた。
そろそろと足場を確認しながら、裂け目まで移動する。
下に目をやると、泰明が駆け抜け様に怨霊を祓っているのが見えた。
そのまま軽々と岩壁に飛び上がり、こちらへと登ってくる。
後を追う怨霊は、なぜかある所まで来ると落ちていく。
「あ…結界?」
泰明にとっては、たやすいことなのだろう。
岩壁の途中で一度、下に向かって印を結び、何かをしていた。
思えばあれは、壁に札を貼っていたのかもしれない。
ほんのわずかな仕草、短い時間だったが…。
その時、浅茅は気がついた。
泰明一人だったなら、怨霊の群など、ものの数ではなかったのだろうと。
これだけの力をもってしたなら、障気の沼も独力で渡れたはず。
それなのに、これだけ大変な思いをしている。
その理由はただ一つ。
余計な荷物を背負っているから……。
『不服か、泰明』
『不服だ、お師匠』
出立の夜のことを思い出す。
今、泰明の抱いた不満は正しかったと、思う。
少しだけ、自分は役に立った。
でも、ほんの少し…だけだ。
皆の足を引っ張っていたのは、他ならぬ、自分なのだ。
岩壁を登ってきた泰明が、目の前に立った。
だが、浅茅はうつむいたままだ。
どくん!!
二人のいる裂け目を通り、鼓動が響き、赤い光が強さを増した。
「くっ…」
泰明が、胸を押さえる。
「泰明さん!大丈夫ですか?!」
思わず顔を上げ、浅茅は叫んだ。
「問題ない。だが、お前には問題があるようだ」
泰明の眼が、浅茅を凝視している。
その視線が、痛い。
「ごめんなさい…ぼく…」
泰明は、続きの言葉を待つように、沈黙している。
「ぼくが足手まといで……。
泰明さんだけだったら、きっと…ずっと楽に…
ここまで来られたはずで…」
「言いたいことは、それだけか」
泰明の口調は、冷静そのもの。
怒っているのか、あきれているのか、浅茅には見当もつかない。
おそるおそる答える。
「だ、だから……ごめんなさい」
「お前が謝っても、起きたことは変わらない」
当然のことだろう…そう言われている気がした。
「……そ、そうでした。
こんなこと言っても、今さら仕方なかったんですよね…」
「我々の目的は、楽に任務を終えることではない。
それぞれが判断を誤らず、必要な時に、必要なことをする。
そのようにして、ここまで来た」
「は…はい…」
泰明の声が、心なしか優しくなった。
「皆がいなければ、ここまで辿り着けなかった。
違うだろうか」
「泰明さん……そう…なんでしょうか…?」
「言の葉を偽りで穢すことはできない」
「ぼくは……泰明さん達と一緒に来て、よかったんですね」
「お前は、為すべきことを果たしてきた。
それは事実だ」
浅茅は、震えた。
ここまでの道が一瞬のうちに蘇り、胸を揺さぶり、駆け抜ける。
心の奥底に潜んでいた氷塊のような恐れの気持ちが、
熱くこみ上げるものに触れ、溶かされていく。
泰明が、裂け目の奥へと身体を滑り込ませた。
「本当の戦いはこれからだ。
行くぞ、浅茅」
「はいっ!!」
細い裂け目を抜けた先には、暗く赤い光が充満していた。
凄まじい力が渦巻き、それが鼓動となり、光となって、
外へと溢れ出しているのだ。
泰明達がいるのは、壁の中程の位置。
押し寄せる力に抗しながら、広い空間を見渡す。
水に囲まれるようにして、中央に岩の台座がある。
向かい側の岩壁を穿った奥に、祠。
と、その時、
「来タカ…」
渦巻く力を纏った晴咒が、祠から歩み出た。
あの凶眼を、真っ直ぐ泰明に向ける。
「今度コソ、壊レルガイイ!」
以前に倍する力で、晴咒は術を放った。
もはやそれは、形として見えるほど。
泰明の周囲の岩壁も、その直撃を受ける。
堅い岩が、まるで脆い砂のように飛び散り、がらがらと崩れ落ちた。
雪逢瀬
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