雪逢瀬 〜4〜

  


梟は夜闇の中に飛び去った。

見送る泰明の背に、咎めるような声が投げつけられる。
「泰明、我らのことは、誰にも言ってはならぬのだぞ。
もう忘れたか」
同行の兄弟子の一人、 土師行貞(はじ ゆきさだ)だ。

「命じられたばかりだ。忘れるはずがない」
泰明は素っ気なく答える。

「だが今、式神を送ったであろう」
行貞の口調がきつくなる。
「問題ない」
「あれは伝言使いの式神だ。いったいどこに送ったのだ?!」
「問題ない、と言った。聞こえなかったか」
「く…貴様っ!!」

「ひぃぃぃっ」
見習いの少年が身を縮めた。

「そんなに熱くなるな、行貞」
沈黙していた同行の一人が、飄々とした声で割って入る。

「しかし、 長任(ながとう)殿…」
「泰明、お前ももう少し、言葉遣いに気をつけろ」
「私は命を違えていない」
「その態度がっ!…」

「ひぃぃぃっ」
見習いの少年は飛び退いた。

仲裁に入った長任は、小さく指を動かし、呪を飛ばした。
行貞の声が途切れる。

「行貞、大声を出すな」
「む…ぐぐぐ…ひどいですよ、悪いのは泰明だ」

やれやれ、と首を振ると、長任は泰明に向き直った。

「嫁御のことか?」

泰明はかすかな驚きを覚える。
なぜ、あかねに関することとわかったのだろう。

しかし、今回の使命は親兄弟といえど口外することは罷りならぬと、
内裏で幾度も念を押された。
もちろん、行き先を匂わせることも固く禁じられている。

そのようなことを、あかねに伝えるはずがない。

「何かを伝えれば、それだけで命を違えることになる。
式神は、別の場所に送った。内容は簡単な依頼のみだ。
これで、よいか」

「それだけなら、なぜ最初からそうと言わぬ!」
「ことを大げさにしたのはお前だ」
「貴様、自分のことを棚に上げて…!」

「ひぃぃぃっ」
見習いの少年は遠くで震えている。

その時、暗がりから大きな男が一人、うっそりと歩み出てきた。

「この真夜中に、にぎやかなことだな」
そう言う男の声も、破鐘のようだが。

「おお、 洞宣(どうせん)殿」
長任と行貞がかしこまった。
「洞宣か」
泰明は何の感慨もなく言った。
見習いの少年は、遠くからおそるおそる様子を窺っている。

「ずいぶん仲がよさそうじゃねえか。先が思いやられるぜ。
まだ京を出てもいないんだぞ」
洞宣と呼ばれた男は、ぎょろりと大きな目玉を剥いた。

もじゃもじゃに伸びた髭と大柄な体躯は、
陰陽師というより、荒くれ者のようだ。

しかし、長任と行貞の言葉から、彼らよりさらに格上の者と知れる。

「ぐずぐずしてる暇はねえ」
そう言うと、洞宣は一行の先に立って、のっしのっしと歩き始めた。

「洞宣殿もご一緒下さるのですね?」
長任が期待を込めて尋ねた。
「ああ、お師匠の式神に、真夜中にたたき起こされた」
「おお」
長任は安堵のため息を漏らした。

「洞宣も、お師匠に頼まれたというのだな」
そう言う泰明に、ちらり、と洞宣は眼をやって答えた。

「この件、晴源が絡んでるらしいじゃねえか。
なら、俺が行くしかねえだろう」

晴源……という言葉に、一同の間に緊張が走った。

呪詛の主として最も疑わしい人物、と晴明が名指しした者。

それが安倍晴源……
かつて比類無い才により、将来を嘱望された安倍家の陰陽師だ。
晴明の愛弟子として、師匠の名から一文字を取り、晴源と名乗ることを許された。

「洞宣殿、その名、むやみに口にしては…」
長任が声を潜めて言う。
「はは、そうだな」
洞宣は苦笑いした。

「だが、洞宣殿に同道して頂ければ心強い」
「確かに今の安倍家に、あやつのことを知っている者はいません」

「ああ、やつが安倍家で修行していた時のことを知るのは、
今じゃお師匠と俺だけだからな」
「つまり、洞宣だけが、その顔を見知っているということか」
「そういうことだ」

遠くに離れていた見習いの少年が、ほっとした様子で戻ってきた。
洞宣に合わせて早足になった一行の後を、遅れがちになりながらついていく。


払暁の頃、一行は京の街を出た。





内裏では祈祷が続いている。
いつまた襲い来るかもわからぬ攻撃に備え、
最強の結界を一刻も緩めることなく維持しなければならない。

陰陽師にとっては、命を削るに等しい労苦だ。

しかし、晴明の心にあるのは己の命のことではなかった。

たとえ袂を分かったとはいえ、弟子の為したことなれば、
その責は師が取らねばならぬというに…。

印を結び呪を唱えながら、晴明の胸中に苦い思い出が去来する。

「我が弟子達よ」
燃え立つ炎の向こうに、晴明は呼びかけた。

「無事、戻るのだぞ」






「たった、それだけ?」
あかねは言った。

「はい、神子様。本当にこれだけですわ」
藤姫は答えた。

泰明からの言伝。それは、

「私が戻るまで、神子を土御門で預かってほしい」

それだけだった。

「その式神はどうしたの?」
「私に言葉を伝えると、そのまま消えてしまいました」
「それで、藤姫は友雅さんに連絡したんだね」
「はい。急がなければならないと思いましたので、
すぐに文を出して友雅殿に来て頂きました」

「そうだったの…」
あかねは思わず、ふっとため息をついた。

いけない!私ったら、ため息ばっかりだ。
気を取り直して、話を切り替える。

「宮中のこと、藤姫は何か聞いていない?」
「申し訳ありません。私は宮中のことは何一つ知らないのです。
ですが父上の御様子から、何か異変が起きていることだけは感じております」

友雅さんは、藤姫なら何か知っているかもしれないと言っていたけれど…。

そうだ!

「直接会ったら、藤姫のお父さん、何か教えてくれるかな」
「どうなのでしょう…。父上は家では政のことは口外なさいませんので。
でも、父上に、神子様とお話しするよう頼んでみますわ」

「ありがとう、藤姫」

よし!少しだけ、前進したかもしれない。

「くすっ」
その時、藤姫が小さく笑った。

「え?どうしたの藤姫?」
「あ、すみません神子様。ちょっと思い出しただけです」
「何を?」
「友雅殿が、神子様のなさることを予言なさったのですよ」
「それで?」
「見事にお当てになって、今日こうして神子様をお連れ下さいました」

「ええっ?!どういう…」
そこまで言って、あかねは思い当たった。
なぜ友雅は安倍家の屋敷に来たのだろう?

「友雅殿は、泰明殿の伝言をお聞きになると、こう仰いました」


「つまり泰明殿はお留守、ということだね」

「はい」
「なぜ土御門から直々に迎えの牛車を手配しないのかな」
もっともな質問だ。
藤姫ならば、すぐにそれだけのことはできる。
わざわざ友雅の手を煩わせることでもない。

藤姫は憂い顔で目を伏せた。
「それが…もし、泰明殿の不在が長引いているなら、
かえって神子様は家を離れたがらないのでは、と。
神子様のお気持ちを考えると、無理にお連れするのも…」

しかし、藤姫の懸念を友雅は軽く流した。
「なあに、泰明殿からの伝言がある、と文に書けば、吹っ飛んでくるさ」

「あ…そうですわね。まあ、そこまで考えが及びませんでしたわ」

「でも、よしておいた方がいいだろうね」
「なぜでしょうか?」

「泰明殿が神子殿に式神を送らなかった理由だよ。
これは、想像するしかないのだけれどね…」
「何なのでしょう。私も不思議に思っているのです」

友雅は、考えながら言った。

「泰明殿が、何か内密の命を受けているとしたらどうだろう。
家族、知り合いとも連絡を取ってはならぬという
強い命が下されていたとしたら?」

「まあ!そのようなことが、あるのでしょうか?」
「困ったことにね、世の中には少なからず、あるのだよ」
「もしそうだとしたなら、文に書くことはできませんわ。
神子様に累を及ぼすことに…」

「そうそう、物わかりがいいね」
友雅は褒めた。
褒められても全く嬉しくない褒め方だが。

「では、頼久を遣いに出しますわ。それなら…」
「いや、その役目は、私が引き受けよう」
友雅は少し楽しそうだ。

「よろしいのですか?」
「ふふっ。頼久では、神子殿は捕まらないよ」
「どういうことですの?」

友雅は笑って言った。
「おそらく、泰明殿が神子殿の元を離れたのは
昨日今日のことではないと思うのだよ」
「はい、私もそう思います」

「だったら、あの神子殿のことだ。
家でおとなしく泰明殿を待っているはずもない」

「まあ、お一人で出歩いていらっしゃるのでしょうか」
「京の街で、神子殿と追いかけっこというのも、
楽しそうじゃないか」




一日が暮れようとしている。

あかねは部屋を出て簀の子に立った。
広い庭を眺めながら、夕暮れの大気を呼吸する。

藤姫、ありがとう。
私のこと元気づけようとして、気を使ってくれてるんだ。

友雅さんも、仕事を放り出して…、いつものことかもしれないけれど、
私のことを探してくれた。
いろいろなことも教えてくれたし。

それに、頼久さんも……

あかねが顔を向けると、簀の子の下に控えていた頼久が頭を下げた。


みんなが支えてくれてる。
私、落ち込んでいたらいけないよね。


そうだよね、泰明さん。

遠くの空はもう夜の色だ。

あなたの言伝、確かに私に伝わったよ。

「私が戻るまで、神子を土御門で預かってほしい」

そうだ。
あなたは、戻ってくる。
必ず、戻ってくる。

あなたの言葉を、私は信じる。

泰明さん、
私、待ってるから。

大好きなあなたのこと……待っているから
戻ってきて、泰明さん。



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雪逢瀬

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