雪逢瀬 〜16〜

  


「晴咒ーーーーーっ!!!」

泰明がこちらに向けて手を伸ばしている。

砂になった私の腕を、再び掴もうとするかのように。

分かっているはずだ、泰明。
その手はもう、私に届かぬことを。
分かっているのに、なぜそのように、
崖の縁に身を乗り出し、手を差し伸べるのか…。


御師匠様、きっと私は間違っているのだろう。

晴明に関わる全てのものを破壊せよと、
御師匠様は私に命令した。

泰明は、晴明に造られたもの、
晴明の気を受け継いだものだ。

だが、私には泰明を壊すことができなかった。
いや、できなかったのではない。
私と共に、奈落の底へと引きずり落とせば、
泰明はきっと、壊れたはず。

私は一人、落ちることを選んだ。
私は自ら、御師匠様の命に……背いたのだ。


なぜなら泰明は、大切なものがあると言っていたから。
泰明は、その大切なもののところに、帰りたいのだろうから。

そしてその大切なものも、きっと
……泰明を待っているのだろうから。


御師匠様、あなたから与えられた命令の中で、
私にできることはもう、ただ一つしか残っていない。

自らの身を砕く。
泰明に掴まれた腕を壊したように、
念じれば、私は瞬時に砂粒のように粉々になれる。

陰の気を封じた核が残っても、
地の底に落ちてしまえば、それもまた壊れよう。

御師匠様……これで、いいだろうか……。

奈落の縁で手を伸ばす泰明が、遠ざかる。

私の名を、幾度も呼びながら、なぜそのように水を…
涙を流すのか。

私は今、とてもあたたかいというのに…。


気を集め、自らの内に向けて、放つ。

ぷっつりと、意識が途切れる。


後には、闇の底へと、砂粒がさらさらと流れ落ちるばかり。






龍脈を流れる気のゆらぎは、京の街へと伝わった。

内裏で、土御門で、一条で、少なからぬ人々がそれを感じ取った。

流れ来たのは、邪気ではない。
今まで滞っていた、本来あるべき気の流れだ。

穢れが、祓われたのか……。

内裏で祈る晴明の周囲に、弟子達が集まってきた。

彼らの前で晴明はゆっくりと印を解き、膝に手を下ろした。
静かな喜びが、さざ波のように広がる。

「お師匠、これで内裏は救われたのですね」
高弟が問う。

晴明は深く頷いたが、その眼に喜びの影はない。

「まだ帰らぬ者がいる。
安倍家はそれを、待たねばならぬ」

その言葉に、弟子達ははっとした。
任の成功は、出立した者達の無事を意味するわけではないのだ。

「きっと、間もなく式神が遣わされるでしょう」
一人が、努めて明るい声を出した。

中で一番若い者は、元気よく言った。
「坐して祈るのは、もうたくさんです。
探しに行ってもよろしいでしょうか」
「陰陽師だろう。祈るのはもうたくさんとはどういうことだ」
「いや、そういうわけでは…」

かすかな笑いが起こるが、一番の高弟がたしなめる。
「ここで気を緩めるな!」
「そうだ、皆が帰るまで、まだ終わったわけではないのだぞ」

それでも弟子達の表情は明るい。

晴明は彼らのやりとりを聞きながら、眼を閉じた。
顔に刻まれた皺は、この数日で一段と深くなっている。

「早う……無事で戻れ……」

小さく呟くが、その声は、弟子達には聞こえなかった。






「一人!」

ぽーん、と浅茅の身体が宙を飛び、どさっと落ちた。

「痛っ!」
浅茅はおでこをさすりながら、周囲を見回す。

「あれ…?ここは…?」

浅茅が覚えているのは、髑髏を石で砕いたところまで。

あの時は、洞窟の祠にいた。
だが今は、周囲が明るい。
頭上高く、岩の天井に穴が開いているのだ。
そこにのぞくのは、久しく見ることのなかった鈍色の冬空。
穴からは、しんしんと冬の冷気が降りてくる。

そうだ、あの時、泰明さんは、晴咒という恐い人と戦っていたんだ…。

慌てて泰明の姿を探す。
しかし、周りはごつごつした岩の塊ばかり。

何が起きたかは、浅茅にもだいたい想像がつく。

「泰明さん…、泰明さん!!」

心細さに思わず叫んだ時、

「二人!」

長任の身体が岩の間から飛び出し、浅茅の目の前にどさりと落ちた。

「痛っ!」
長任はおでこをさすりながら、周囲を見回した。

「私に用か、浅茅」
岩から顔を出して、泰明がこちらを見ている。

「泰明さん!……よかった…」

「用は、それだけか」
ぶっきらぼうな声が、今の浅茅にはとてもうれしい。

「はい!泰明さんが無事だったから、それでいいです」

「ならば、そこで待っていろ」
そう言って、泰明は、岩の裂け目に入っていく。

ほどなくして、

「三人!」

洞宣が岩の間から押し出され、浅茅の目の前にどすんと落ちてきた。

「痛っ!」
洞宣はおでこをさすりながら、周囲を見回す。

「あと一人」
泰明は、岩の間からひらりと飛び上がった。

そして、
「あの辺り…か」
浅茅達の前をすたすたと素通りして、岩壁の際まで行き、
何やら呪を唱え始める。
すると、細い岩の裂け目から、煙のようなものが流れだし、
見る間に四つ足のほっそりした式神の形になった。

「案内せよ」
泰明が命じると、式神は前足を一振りする。

岩が砕け、飛び散り、後にはぽっかりと大きな穴が口を開けた。

式神と共に、泰明はその穴に飛び込む。

「あ…あの…泰明さん…」

浅茅のことも、長任も洞宣のことも、完全に黙殺している。
そもそも眼中にないのかもしれない。

「やつがあんな調子で動いてる時には、何を話しかけても無駄だぞ」
洞宣が浅茅に言った。長任も頷いている。

「でも、泰明さんは、行貞さんのこと、助けに行ったんですよね。
ぼく、何か手伝えればと思って」

すると、洞宣は大きな手で浅茅の肩をばんと叩いた。

「いいか、お前はもう、使い走りじゃねえ。
帰ったら、安倍の陰陽師としての修行が待ってるんだ。
となれば……」

後を、長任が引き継ぐ。

「浅茅の方が、泰明の兄弟子ということになる」

「えええええっ?!!」

「浅茅は安倍家に来てから何年になる?」
「え…ええと…四年か…もうすぐ五年になります」

「なら、立派にお前の方が先輩だ。もっと堂々としてろ!」
「はぁぁぁ?……」

浅茅が目を白黒しているところに、

「ぐぁぁぁ!!」

泰明の入った穴から悲鳴が聞こえてきた。
その悲鳴は、次第に近づいてくる。

「行貞だ!」
「元気そうな悲鳴で何よりです」
「………」

行貞を背負った泰明が、式神と一緒に戻ってきた。

「四人!これで、全部だ」

背からどさりと下ろされると、行貞は蒼白な顔をして泰明を睨んだ。

「貴様というやつは、もっと丁寧に怪我人を運べないのか!」
開口一番食ってかかり、いたたたた…と肩を押さえる。

「一刻も早く外に出たがったのは行貞だ」
泰明はにべもなく答えた。

「乱暴な扱いで、俺は痛くて死ぬかと思ったぞ」
「暗い狭い恐い死にそうだと、岩の下で言っていたのはお前だ」
「ぐ……貴様!…人前で言っていいことと悪いことが…」


浅茅は思わず涙が出そうになった。

二人のこんな言い合いに、小さくなって震えていたのは
ついこの間のことだ。
それが今では、こんなになつかしくて、暖かい気持ちになる。

みんなの邪魔にならないように、後ろからついていくだけが精一杯で、
自分がみんなと一緒にいるのが、すまなくて、
何もできない自分がとてもみじめで、
でも、自分に何ができるのか、何がしたいのかさえ、わからなくて……。

浅茅は、涙と鼻水で固くなった袖で、ごしごしと目をこすった。
こすると、目の周りがひりひりと痛い。

でももうぼくは、こんなに泣いたりなんかしない。
ぼくは、ここにいて……いいんだ!

浅茅は、目を押さえたまま声を殺し、笑いながら泣いていた。



次へ






雪逢瀬

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [17] [18]




[小説トップへ]