「泰明よ、お前に辛い役目を与えねばならぬ」
安倍晴明は絞り出すような声で言った。
深夜の紫宸殿の前庭。
祈祷の儀式の篝火が、赤々と燃えて晴明の顔を照らしている。
炎に浮かび上がるその顔は青白く、口の端には乾いた血の痕が残る。
しかし、双眸の炯々とした輝きに、齢を重ねた衰えはなく、
泰然として座ったその姿勢には微塵の乱れもない。
泰明と対峙した晴明に代わり、安倍家の高弟たちが祈りを続けていた。
低く和した声は重なり合い、遠く近く地鳴りのように響き、唸る。
辺りを満たす呪の声の中、
泰明は、黙して晴明の次の言葉を待った。
晴明は、鋭い眼光を泰明に向けたまま、ゆっくりと口を開く。
「内裏に寄せ来る呪詛の根源を探れ。
そしてその在処を突き止め、祓ってくるのだ」
強い呪詛だ…。
と、泰明は思う。
お師匠の祈祷を破り、その身に傷を負わせ、内裏にまで届くほどの。
だが言葉に出しては、
「わかった」
とのみ。
こういうところは、変わらぬものだ…。
晴明の眼に、厳しさとは別の色が、ふと浮かんだ。
しかし、それは一瞬のこと。
「内裏に呪詛が入り込むは、帝の喉元に刃を突きつけられたも同じ。
一刻も早く、御心を安んじねばならぬ」
泰明には、晴明の言わんとすることが理解できた。
すぐに出立せよ。
あかねに別れを告げることはできぬ…と。
「内裏の結界は支える。我が命に代えて、帝に手出しもさせぬ。
だが、出来るのはここまでだ」
稀代の陰陽師、安倍晴明をして、ここまでが限界と言わしめるほどの術者とは…。
居並ぶ高弟達は、一様に身震いを禁じ得なかった。
だが泰明は、表情一つ変えていない。
「では、穢れの元を突き止め、邪気を祓ってくる」
そう言って立ち上がろうとした時、晴明の合図で三人の男が前に進み出た。
二人は、安倍家の高弟の中でも、敏腕練達を持って知られている。
「泰明、一緒に行けと、師匠からの命令だ」
「そういうわけだ。同行など要らぬと思うのは、こちらも同じだがな」
「あ、あのう…一生懸命がんばります…」
頼りなさそうな声でおずおずと挨拶したのは、
まだ見習いをしている少年だった。
お師匠は何を考えている…。
ちらりとその三人に目を走らせると、泰明は晴明に向き直った。
足手まといがいては、役目が果たせない。
「不服か、泰明」
「不服だ、お師匠」
「一つだけ、お前達に伝えておかねばならぬことがある。
それは……」
土御門。
藤姫の館に、あかねはいる。
案内されたのは、数ヶ月前に使っていた部屋。
きれいに調えられ、火桶にはすでに火が入っていた。
京の春と夏を過ごしたなつかしい部屋だ。
だが、今はそのような気持ちに浸ってなどいられない。
「神子様、何かご入り用の物がありますか?」
そう言って入ってきた藤姫の姿を見るなり、あかねは尋ねた。
「ねえ藤姫、私が来ること知っていたの?」
「まあ、神子様、突然どうされたのですか」
「私がここに着いた時、頼久さんが『お待ちしておりました』って。それに」
「それに、何でしょうか?」
「この部屋、急に準備したとは思えないから」
藤姫は眼を伏せ、小さく答えた。
「その通りですわ、神子様」
「どうして?」
「泰明殿に、いいえ、正確には、泰明殿の式神から言伝を聞きました」
「え…」
あかねは言葉を失った。
泰明さん…。
私には、何も言ってきてくれないのに…。
なぜ、藤姫に…。
「神子様、お顔の色が…。大丈夫ですか」
気遣う藤姫の声が、遠くに聞こえる。
あかねは藤姫から顔をそむけ、火桶の炭に視線を落とした。
「友雅さんも、藤姫に頼まれて…?」
「はい…」
その時、つーっと、あかねの頬に涙が流れた。
両手で顔を覆う。
あかねは、ただ一つの可能性に思い至ってしまったのだ。
「神子様…、どうか泣かないで下さい。」
藤姫の声が震えている。
小さな手が、あかねの手をそっと握った。
あかねは、ぐっと歯を食いしばる。
涙をごしごし拭いて、顔を上げ、藤姫に向き直った。
泣いてるだけじゃだめだ。
「では教えて。
泰明さんの言伝は何だったの?」
京の空に、冷たく冴え渡った月がかかる。
身を切るような寒風の中に立ち、泰明は天に向け腕を伸ばした。
その指先から呪符の札がふわりと舞い上がり、その姿を梟へと変じた。
羽ばたきの音を残して、夜闇の彼方に飛び去っていく。
泰明は無言でそれを見送った。
梟は三日と三晩の間、とある屋敷の木に止まり、姿を消したまま眠り続けるだろう。
それまでに私が戻ったなら、梟はそのまま元の呪符に戻る。
しかし、戻らなかったなら…
あれは、私の言葉を伝えるだろう。
神子は、私の家にいてはならない。
神子の身に、危険が及ぶ。
出立前に晴明が語ったのは、呪詛の主に関することだった。
そして、泰明に低い声で問うたのだ。
「泰明よ、身体に異変は無いか」と。
家を出る前に襲い来た眩暈を思い出す。
お師匠が、傷つきながら呪詛をはね返したのと同じ時。
「あの時の呪詛の一撃は、明らかにこの晴明を狙ったもの。
その術が放たれれば、同じ気を持つお前にも、
取り返しのつかぬ痛手となるやもしれぬ。
覚悟してかかるのだぞ、泰明」
雪逢瀬
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