雪逢瀬 〜3〜

  


「泰明よ、お前に辛い役目を与えねばならぬ」

安倍晴明は絞り出すような声で言った。

深夜の紫宸殿の前庭。
祈祷の儀式の篝火が、赤々と燃えて晴明の顔を照らしている。

炎に浮かび上がるその顔は青白く、口の端には乾いた血の痕が残る。

しかし、双眸の炯々とした輝きに、齢を重ねた衰えはなく、
泰然として座ったその姿勢には微塵の乱れもない。

泰明と対峙した晴明に代わり、安倍家の高弟たちが祈りを続けていた。
低く和した声は重なり合い、遠く近く地鳴りのように響き、唸る。

辺りを満たす呪の声の中、
泰明は、黙して晴明の次の言葉を待った。

晴明は、鋭い眼光を泰明に向けたまま、ゆっくりと口を開く。
「内裏に寄せ来る呪詛の根源を探れ。
そしてその在処を突き止め、祓ってくるのだ」

強い呪詛だ…。
と、泰明は思う。
お師匠の祈祷を破り、その身に傷を負わせ、内裏にまで届くほどの。

だが言葉に出しては、
「わかった」
とのみ。

こういうところは、変わらぬものだ…。
晴明の眼に、厳しさとは別の色が、ふと浮かんだ。

しかし、それは一瞬のこと。

「内裏に呪詛が入り込むは、帝の喉元に刃を突きつけられたも同じ。
一刻も早く、御心を安んじねばならぬ」

泰明には、晴明の言わんとすることが理解できた。

すぐに出立せよ。
あかねに別れを告げることはできぬ…と。

「内裏の結界は支える。我が命に代えて、帝に手出しもさせぬ。
だが、出来るのはここまでだ」

稀代の陰陽師、安倍晴明をして、ここまでが限界と言わしめるほどの術者とは…。
居並ぶ高弟達は、一様に身震いを禁じ得なかった。

だが泰明は、表情一つ変えていない。

「では、穢れの元を突き止め、邪気を祓ってくる」

そう言って立ち上がろうとした時、晴明の合図で三人の男が前に進み出た。

二人は、安倍家の高弟の中でも、敏腕練達を持って知られている。
「泰明、一緒に行けと、師匠からの命令だ」
「そういうわけだ。同行など要らぬと思うのは、こちらも同じだがな」

「あ、あのう…一生懸命がんばります…」
頼りなさそうな声でおずおずと挨拶したのは、
まだ見習いをしている少年だった。

お師匠は何を考えている…。
ちらりとその三人に目を走らせると、泰明は晴明に向き直った。
足手まといがいては、役目が果たせない。

「不服か、泰明」
「不服だ、お師匠」
「一つだけ、お前達に伝えておかねばならぬことがある。
それは……」




土御門。
藤姫の館に、あかねはいる。
案内されたのは、数ヶ月前に使っていた部屋。
きれいに調えられ、火桶にはすでに火が入っていた。
京の春と夏を過ごしたなつかしい部屋だ。
だが、今はそのような気持ちに浸ってなどいられない。

「神子様、何かご入り用の物がありますか?」
そう言って入ってきた藤姫の姿を見るなり、あかねは尋ねた。

「ねえ藤姫、私が来ること知っていたの?」

「まあ、神子様、突然どうされたのですか」
「私がここに着いた時、頼久さんが『お待ちしておりました』って。それに」
「それに、何でしょうか?」
「この部屋、急に準備したとは思えないから」

藤姫は眼を伏せ、小さく答えた。
「その通りですわ、神子様」

「どうして?」

「泰明殿に、いいえ、正確には、泰明殿の式神から言伝を聞きました」

「え…」

あかねは言葉を失った。

泰明さん…。
私には、何も言ってきてくれないのに…。

なぜ、藤姫に…。

「神子様、お顔の色が…。大丈夫ですか」
気遣う藤姫の声が、遠くに聞こえる。

あかねは藤姫から顔をそむけ、火桶の炭に視線を落とした。
「友雅さんも、藤姫に頼まれて…?」

「はい…」

その時、つーっと、あかねの頬に涙が流れた。
両手で顔を覆う。

あかねは、ただ一つの可能性に思い至ってしまったのだ。

「神子様…、どうか泣かないで下さい。」
藤姫の声が震えている。
小さな手が、あかねの手をそっと握った。

あかねは、ぐっと歯を食いしばる。
涙をごしごし拭いて、顔を上げ、藤姫に向き直った。
泣いてるだけじゃだめだ。

「では教えて。
泰明さんの言伝は何だったの?」




京の空に、冷たく冴え渡った月がかかる。

身を切るような寒風の中に立ち、泰明は天に向け腕を伸ばした。

その指先から呪符の札がふわりと舞い上がり、その姿を梟へと変じた。
羽ばたきの音を残して、夜闇の彼方に飛び去っていく。

泰明は無言でそれを見送った。

梟は三日と三晩の間、とある屋敷の木に止まり、姿を消したまま眠り続けるだろう。

それまでに私が戻ったなら、梟はそのまま元の呪符に戻る。
しかし、戻らなかったなら…
あれは、私の言葉を伝えるだろう。

神子は、私の家にいてはならない。
神子の身に、危険が及ぶ。


出立前に晴明が語ったのは、呪詛の主に関することだった。

そして、泰明に低い声で問うたのだ。

「泰明よ、身体に異変は無いか」と。

家を出る前に襲い来た眩暈を思い出す。
お師匠が、傷つきながら呪詛をはね返したのと同じ時。

「あの時の呪詛の一撃は、明らかにこの晴明を狙ったもの。
その術が放たれれば、同じ気を持つお前にも、
取り返しのつかぬ痛手となるやもしれぬ。
覚悟してかかるのだぞ、泰明」



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