雪逢瀬 〜5〜

  


見習いの少年、 浅茅(あさじ)は、息を切らせて走っていた。

ただでさえ小柄な浅茅は、大人と一緒に歩くだけでも、
小走りにならなければ追いつけない。
それが今は急ぎの任で、先輩達の足はいつにも増して速い。
その上、背に食料などを詰めた重い荷を背負っている。

遅れがちになっては、こうして走る。
少年にはきつい仕事だが、一人前になるためには音をあげることはできない。
浅茅は必死でついていく。

最後尾を行く泰明の背が、やっと見えた…と思った時、
その泰明が唐突に振り向いた。
つかつかと近づいてくる。

「ひぃぃっ。遅れてごめんなさいっ」
浅茅は目をぎゅっとつぶり、身を縮めた。
殴るような人ではない、と分かっていても、恐い。

小さな祓いの呪が聞こえた。

おそるおそる目を開けてみると、泰明が浅茅の足元に向かい、
さっと手を払うところだった。

「あのう…」
上目づかいに泰明を見上げると
「またか」
泰明の眼に射すくめられる。

「ごっ、ごめんなさいっ…気がつかなくて…」
「なぜ穢れを避けない」
「分かりません」
浅茅の声が、どんどん小さくなっていく。

「泰明、そこまでにしてやれ」
先を歩いていた長任が、踵を返して戻ってきた。
「浅茅は穢れどころか、怨霊も見えないんだ」

「そうなのか?浅茅」
「はい…」
消え入りそうな声で、浅茅が答える。

「全く、それでよくも陰陽師になりたいなどと思ったものだ」
足を止めて振り返った行貞が言った。
「す…すみません…」
浅茅はしょんぼりしている。
「足手まといにだけはなるなよ」
「はい…」
行貞の言葉に、うつむいたまま、浅茅は答えた。

「大事な任務の途中で、そんなに落ち込むな。
あのお師匠が、見込みのない者を弟子にすると思うか」
長任が励ますように声をかけると、浅茅は顔を上げた。
「そ…そうでしょうか…」
少しだけ、明るい声。

しかし、
「事実は変わらぬ」
泰明の声が、長任と浅茅の会話を断ち切った。
「時間がない。行くぞ」

浅茅は、唇を噛んで再びうつむく。
その背が、急に軽くなった。

泰明が、浅茅の荷を取り上げたのだ。
「私が荷を持ち、後ろにつく」

「は?」
浅茅は驚いて言葉を失った。

信じられないことを耳にして、
洞宣は目を剥き、長任はあんぐりと口を開け、行貞はつまずいた。

しかし、三人が聞いたのは、空耳ではなかった。

見習いの少年、浅茅の担いでいた荷物を、泰明が持っている。
泰明のすぐ前を、急ぎ足で歩く浅茅の顔には、
何とも形容のつかない表情が浮かんでいた。

三人の顔も、同じだった。

「足を止めるな。
この間にも、お師匠は命を張って結界を維持している」

いつもの愛想皆無な泰明の声に、なぜかほっとして歩き出す。

「す…すみません、泰明さん」
浅茅が振り向くと、泰明はにべもなく言った。

「お前の足は、ただでさえ遅い。荷を負っていればなおさらだ。
そのために火急の任に支障をきたしてはならない。
それだけのことだ」

「…ごめんなさい、足が遅くて…。でも、おかげで楽になりました。
それで、ええと…」
「荷を下ろしたのだ。無駄口を叩かず、さっさと前を向いて歩け」
「はっはいっ!!!」

「やはり泰明は泰明だな」
行貞が言った。
「浅茅の荷を持つ、と言い出した時には耳を疑ったが」

「いや、以前の泰明なら、見習いなど一顧だにするものか」
長任が、細い目をさらに細くして言った。
「嫁御はよいものだな」

「ははは、長任は自分が嫁を娶ったばかりだからな」
洞宣が笑いながら口を挟んだ。
「そんなものでしょうか。あの泰明が…」
行貞は合点がゆかぬような口ぶりだ。

「なあに、よいと思うのは最初だけだ」
「そんなものでしょうか」
今度は長任が言った。
「嫁とは、世にも恐ろしいものだぞ」
「おお…洞宣殿にも、恐ろしいものがおありでしたか」

「だが、童は可愛い」
「そんなものでしょうか」
長任と行貞が、口を揃えて言った。


三人のやりとりは、泰明の耳にも入ってくる。

しかし、自分のことが話の俎上にあったところで、興味はない。
そこに加わるつもりもない。

そんなことよりも……。

黒い雲霞のような風が吹き過ぎ、
前を行く兄弟子三人が、一瞬、呻いて足を止めた。

「いやな風だ」
「呪詛を風のように飛ばすとは…」
「早く止めなければならん」

浅茅一人が、けろりとして歩いている。

呪詛の源が近い。

呪詛の黒風が吹き荒れるたびに、泰明を苦痛に満ちた眩暈が襲う。
ただの穢れとは異なる、身体の深奥を抉るような不快な痛み。

地に足を踏みしめ、倒れるものか、と思う。
あかねを、思う。
その笑顔を思う。

心に灯るあたたかさが、泰明を支えている。


一行の行く手に、鬱蒼とした木々の生い茂る、暗い森が見えてきた。






「神子殿が京のために成して下さったことを思えば、
この左大臣、いかなる隠し事も、するものではございませぬぞ」

老獪な政治家にして藤姫の父である左大臣は、好々爺然とした声音で、
目の前に座ったあかねに向かって話している。

思えば、龍神の神子と二人だけで話すのはこれが初めて。
神子といっても、とりたてて美しいわけでもなく、
神懸かった様子もなく、威厳もなく、ごく普通の娘という印象だ。

「ありがとうございます」

素直ににっこりと笑うところなど、まるで童女のままか。

「では、泰明さんがどこに行ったのか、いつ帰ってくるのか教えて下さい」

いきなり核心を突いてきた。
何があったか、どうしてなのか、などと聞いてくるものと思っていたが、
安倍の陰陽師への想いゆえか。

「申し訳ないが、神子殿…」
前置きの言葉に、その顔が曇る。

「内裏に穢れを放った者がいるのは確か。その者の在処を突き止めるため、
安倍家の陰陽師は出立されたのじゃ。
つまりは、あらかじめ行き先が分かっていたわけではないということになる」

「けれど、闇雲に彷徨うような事はしないと思います。
何か手がかりがあったのではないですか。
せめて、内裏を出てからどちらに向かったのかだけでも、分かるはずです」

左大臣の眼が光った。

見た目に騙されてはいけないということか。
この娘が、八葉を従え、鬼に打ち勝った事実、忘れてはならぬ。

「神子殿、全ては帝のご意志で伏せられておる。
なぜか、お分かりか」

「とても重大なことなので、みんなが心を乱さないように…ということでしょうか」

「よう仰せられました。さすが龍神の神子殿にございますな。
つまりは、世の平安のため。
徒に人々の心を惑わせぬように、帝の治世を揺らがせぬようにということなのじゃ」

不吉が続けば、帝の治世への不安を口にする者が出てくるものだ。
まして、帝が呪詛されたなど、その呪詛が内裏にまで届いたなど、
誰にも知られてはならぬこと。

それを好機と見る者は、多い。
それが、内裏。それが、世の常。
政敵がこのことを利用せぬように、この左大臣家が傾かぬように、
極秘にせねばならぬ。
噂が立ち上っても、もみ消さねばならぬ。
藤が神子を引き取ったのはよいことだ。
下手にあちこちで尋ね回られても困る。

まっすぐな神子の視線を、細く笑った眼で受け止める。

たとえ藤の頼みでも、龍神の神子の願いでも、政は別。
それが、当然なのだ。
それが、左大臣という立場なのだ。

黙したまま神子は深々と頭を下げ、その場を去っていった。

左大臣は、我知らず長い息を吐き、己の小さな後悔に気づいた。
偽りは言っていない。しかし、真実も伝えなかった。

権謀術数に長け、政敵を蹴落とすことに何の躊躇いも持たぬ左大臣が、
毅然として立ち去りゆく小娘に今、言い様のない敗北感を覚えていた。







闇の中で、それは眼を開いた。

「誰ダ……」

その眼には、異形の瞳。

「誰カガ…近ヅイテクル」

瞳には瞳孔が無く、無数の小さな黒い点が、蟲のように動き回っている。

「晴明カ……」

その眼が瞬きをした。

「……違ウ」

蟲が激しく動き回る。

「……邪魔ハ…サセナイ」

それは、再び眼を閉じた。



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雪逢瀬

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