雪逢瀬 〜7〜

  


「私ハ…ヤスアキ…デハナイ」

美しくもおぞましいその者は、泰明とそっくりの声で言った。
だがその声は抑揚もなく、感情の欠片さえも感じさせない。

「内裏を呪で穢しているのはお前か?!」
まだ衝撃から覚めやらない洞宣だが、それを押さえこみ、前へと進み出た。
長年の経験と使命感が、彼を突き動かしている。

「ソウダ」
その者は、いとも簡単に認めた。

「晴源はどこだ!!」
行貞が叫んだその瞬間、その者はくるりと行貞に向き直り、
下げていた腕を斜めに一閃させた。

「ぐわっ!!」
血飛沫を上げ、行貞が倒れる。
胸から肩口までが、剣で薙いだようにざっくりと割れている。

「行貞!」
「ひぃぃぃっ」
「何をしやがる!!」

「御師匠様ノ名ヲ、呼ビ捨テニスルナ」

行貞への攻撃は、怒りゆえのものだったのだろう。
だが、言葉とは裏腹に、表情も声の調子も変わらぬままだ。

洞宣も長任も、激痛に悶える行貞さえも、その違和感と不気味さに
得体の知れぬ恐ろしさを感じた。

「オマエは…」
次にその者は、泰明を見た。
瞳の中の小蟲が激しく動き回る。
「晴明…カ?」

「私は安倍泰明。晴明様は私のお師匠だ」
異様な瞳の凝視を真っ向から受け止め、泰明は静かに答えた。

泰明には、こやつを目の前にしても、微塵の恐怖もないというのか。
洞宣達は驚愕した。
泰明…、お前は何も感じていないのか、
それともよほど肝が据わっているということか。

泰明は言葉を続けた。
「お師匠が、私を造った。お前は誰に造られたのだ」

「ソウカ…ヤハリオマエハ」
その者は、小さく瞬きをした。そして、
「ワタシハ、セイジュ。
晴明ヲ咒イ、倒スタメニ、御師匠様ニ造ラレタ」

長任が呆然として呟く。
「セイジュ…晴咒だと…」
「とんでもねえ逆恨みだ」

「晴明ヲ殺シ、晴明ノ周リノ全テヲ、私ハ壊ス」

「そんなことは、させねえぞ!!」

「御師匠様ノ命令ダ。オマエタチニ邪魔ハサセナイ」

「ならば、ここでお前を止める!」
泰明が術を放った。
しかし、それは晴咒の眼前の中空でかき消える。

「目障リダ。晴明ノ気ヲ持ツ、オマエ」
晴咒は、腕を真っ直ぐに泰明に向けた。

その手から放たれたものが何なのか、
他の者には見ることも感じることも出来なかった。

しかし、泰明の身体が弾かれたようにがくんとのけぞり、
そのまま後ろに倒れていく。

無数の小蟲がその様を追い、やがて晴咒はゆっくりと皆に背を向けた。

「待てっ!!」
「行かせぬぞ!!」
洞宣と行貞が術を放つが、すぐ近くにいる晴咒に届かない。

「ココデ朽チ果テルガイイ」

その言葉だけを残して晴咒の姿は消え、その後に闇と沈黙が下りた。







内裏では、もう祈祷などいらぬという気分が支配的になりつつあった。
すでに呪詛による攻撃が途切れて数日が経つ。
その間、内裏に穢れが入り込むことも無かった。

ならばもう、事態は収まったと見てよいのではないか。
姿の見えぬ敵といえど、そう度々仕掛けてこられるはずもない。
むしろ、朝敵は早々に探し出して捕らえねばならぬ。
防戦一方では、あまりに情けない。

これらの言葉が、聞こえよがしに囁かれるようになっている。

晴明の周辺も騒がしい。

長引く探索の原因は、浅茅を同行させたことにある、というのが
安倍家の高弟達の一致した考えだ。
浅茅にできることといえば、使い走りがせいぜい。占術の基本すら身につけていない。
もっと力量のある者を行かせるべきであったと。

解せないのは、子供でも分かるようなこの理屈を、
なぜ、お師匠様ほどの方が考慮しなかったのか、ということだ。


しかし晴明は沈黙を続けている。
後悔はない。

その心には、浅茅が母に連れられて来た時の光景がよぎる。

陰陽寮へと出仕するため、屋敷を出た晴明の前に、
子供の手を引いた女がいきなりまろび出た。
地に膝をつくなり、
「安倍晴明様でいらっしゃいましょうか」
と問う。

「女、無礼であるぞ」
「退け!」
弟子達が追い払おうとするのを、晴明は止めた。

「いかにも、安倍晴明だが、何用かな?」

「こ、この子を、晴明様の弟子にしてやって下さいませ!!」
女は、頭を地面にこすりつけ、ひれ伏した。
子供も母のする通りに、地面に額をぐりぐりと付ける。

「な、何を言い出すかと思えば」
「図々しいにもほどがあるというものだ」
「血筋正しい者ならばいざしらず」
「お師匠様、ここは我らが引き受けますゆえ、先にお行き下さい」

しかし晴明は立ち止まり、ひれ伏す親子を見下ろした。

母親の隣で丸くなって土下座している子供に視線をやり、
一瞬、息を止め、やがて深く吐き出す。

この母親は……知っているのか。
知っていて、ここに連れてきたのか。

粗末な着物に身を包み、枯れ木のように痩せた母親は、全身を震わせている。
緊張と、恐ろしさのためだろう。
細い指が、土をきつく掴んでいる。

「どうか…お願いでございます!」
わななく唇から、やっと次の言葉を出す。

一心に、願う心。

ここにあるのは、子を思う親の、ひたすらな気持ちだけだ。

この母親には、こうすることしか思い浮かばず、
こうすることしかできなかったのだ。

晴明はゆっくりと言った。

「顔を上げよ。子供は預かる」


そしてその時から、浅茅は安倍家の弟子となったのだった。


呪によって、がんじがらめに力を封じられた子供。
その呪法は、他ならぬ晴明の編み出した秘術だ。

となれば、浅茅にその呪法を用いたのは……。

皮肉な巡り合わせか、必然の結果か。

だがどちらも同じこと、と晴明は思う。
自らの生きる道は、自ら切り開いていくもの。

「浅茅よ、己にかけられた呪を、自ら祓ってみせよ。
お前なら、それができるはず」

その機会は、おそらく今しかない。

「泰明が生き、お前が生きれば、皆無事に戻れようぞ」







小さな松明に火が灯された。

浅茅が荷をかきまわして、手当の道具を取り出した。

「泰明さん…」
動かぬ泰明に近づき、そっと手をかけて揺する。
「息…してますか…」
涙と鼻水を、一度に袖でこする。
浅茅の着物の袖は、もうびしょびしょだ。

「泰明さん!!」

「……ない」
かすかに、泰明の唇が動く。

「わあっ、よかった!!泰明さん、生きてるんですね!!」
「問題…ない」
小さな声が答える。

「今、手当てしますから」
「問題ない…と…言っている」
「そんな…だって泰明さんは」
「行貞…を…手当てしろ」
「行貞さんなら、今長任さんたちが」
「わからないのか。その道具は…行貞の傷に適合するものだ。
さっさと…行け」
「……はい」


幾千もの棘が体内で蠢いているようだ。

これが、内裏へと襲い来た攻撃の正体。
お師匠だけを狙い、磨き上げられた禍々しい術だ。

泰明は、全身の力を抜き、静かに呼吸を繰り返す。

致命傷とならなかったのは、お師匠と私が同じではないからだ。

泰明は眼を閉じ、棘の一つに意識を集中した。

気を集め、その棘を引き抜く。

堂に入ってからの視線は、晴咒のものだった。
我々が近づいていることを、とうに察知していたのだろう。

次の棘を抜く。

晴咒は、お師匠の周り全てを壊すと、言っていた。
この堂を離れ、外界に出たならば、真っ先に狙うのは安倍家の屋敷。
そして次には、私の結界に守られた家。

晴咒を、ここから出してはならない。

さらに一本の棘が消える。

神子は……今頃、藤姫の館にいるだろう。
藤姫と、笑いながら、語らっているのだろうか。

あかねを想った瞬間、春のようなあたたかさが心に満ち、
泰明の痛みは和らいだ。

不思議だ……神子。
離れているのに、私はこうしてお前に守られている。
お前のために、強くあらねばと思う。

造られたモノであった私に、もたらされた、お前という幸福。

「泰明よ、お前は幸せになるために生まれてきた」

私に語りかけたお師匠の言葉の意を、神子に会うまでは理解できなかった。
「幸せ」という不思議な言葉。
お師匠の深い心。


だが、晴咒は……

「晴明ヲ咒イ、倒スタメニ、御師匠様ニ造ラレタ」

その言葉が、幾千の棘よりも深い痛みを伴って、
泰明の心に突き刺さっていた。



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