時空(とき)のさすらい人


皐月の里




澄み渡った空高く鳥が鳴き交わし
さやさやと渡る微風は、花と若葉に薫る。

山間の小さな里。

大人は畑仕事に精を出し、
年長の子供達も、見よう見まねでその手伝いをしている。

その中に混じり、まだ幼い子が一人、簡単な用事を言いつかっては、
あっちにこっちに、せわしなく駆けまわっていた。

しかしその子は、ひらひらと舞う蝶が気になって仕方ないようで、
用事の合間には、蝶の後を追いかけて走る。

蝶が花にとまったところに、そろそろと近づいては頭から子兎のように飛びつく。
ひらりと逃げられても、それが面白いのか、きゃっきゃと笑いながら、また走る。

「よくもまあ、疲れないものだ」
「よほど楽しいのだろう」
大人達は微笑ましげに、子供を見やっては、また仕事に戻る。

いつもと同じ、皐月の光景だ。
丈高い楡の木が、穏やかに過ぎゆく里の時間を見下ろしている。

その木の近くに建つ小さな家にも、子供の笑い声は届いていた。

「ほんに、元気なものじゃのう。
よう笑うのは、いつものことじゃが」
老人が、庭に巡らした低い垣の向こうを見やりながら言った。

「はい、我らが困るくらいに」
対峙した偉丈夫が、深く響く低い声に笑いを含ませながら答えた。
「いつも大人の目を盗んでは、村はずれまで行ってしまうのです」

「ほう、そこまですばしこいとは、さすが棟梁の息子じゃ。
お前さんも、小さい頃は随分と困らせてくれたからのう」
からからと、老人は笑った。

つられて小さく笑い声を出した男の顔が、真顔に戻る。
「して長老、リズヴァーンはご迷惑をかけてはおりませぬか」
老人は笑みを浮かべたまま、やれやれというように白い眉を上げた。
「棟梁自ら、何をしに来たかと思えば、その心配か」
「はい」
男は真顔のままだ。
「ようやっている。飲み込みが早くて、驚くほどじゃ。
兄たちと一緒が、よほど嬉しいとみえる」

「ご指導の賜物、感謝致します」
男は少しほっとしたように頭を下げた。

しかし、老人はそれに応えることもなく、言葉を続けた。
「じゃがのう、時折居眠りをしておるぞ…」

皺の奥に窪んだ老人の眼が、男の眼を真っ直ぐに見据える。
「剣の稽古をしていると聞いた。まことか」
「まことにございます」
男は、眼をそらさずに答えた。

「剣を持つには、まだ幼い。
なぜじゃ。
わしは、同じことを以前にも尋ねたことがあった。
覚えておるかな」

「覚えております。リズヴァーンを、兄たちと共に学ばせて頂きたいと、
お願いにあがった時のこと」

「今一度、問うぞ。
なぜじゃ。なぜあの子だけ、それほどに急ぐのじゃ」

男は、膝に置いた両の手を、ぐっと握りしめた。
「では、私も今一度、長老に同じ言葉でお答えしよう。
長老はあの日、なぜに、あのように急に私をお呼びになり、
なぜ、まだ生まれぬ子に、リズヴァーンという名をお与えになったのか」

しばし黙した後、、老人は遠くを見るように、男から眼をそらした。
その口元が、かすかにゆがんでいる。
「同じじゃな……。
我ら、理由を語らぬままに、常ならぬ事をしてきておる。
いや……己自身、理由など分かってはおらぬのかもしれぬ。
ただ、そうしなければならぬと……その思いばかりが、確かなものじゃ」

男は眼を閉じ、ゆっくり、一言一言を噛みしめるが如くに言った。
「時の流れは不可思議。私の出会いが真実のものなれば、
それは我らの理解能わざるものにて……
ただ、今を生きるこの身が為し得ることを、精一杯為すのみ」

「そうじゃのう…」
老人は深いため息をついた。
「時の理に触れることの出来るのは、神しかおらぬ。
棟梁は覚えてはいまいが、その昔、この里に現れた女がおってな」

「私がリズヴァーンほどの年頃のことでしたでしょうか」

老人の眼が、可笑しそうに細められた。
「なんじゃ、小さくても覚えておるか」
「見たこともないほど美しい女性でしたので」
老人は髭を震わせて笑った。
「この堅物が、言いよるわい。
じゃが確かに、鄙の地にはもったいない美女であったな。
シリン……という名だったか。わしまで、血が滾ったくらいじゃ」

「その方は、時を渡ったとか…」
「そう言っておった。龍神の力で、百年の時を飛ばされたとな」

「……どのような思いであったのか、痛ましい」
「いや、おなごは意外とたくましいものじゃ。
この里に引き留めることは、結局できなんだ。
京に帰ると言い張ってきかぬでな」

「京…かつて我らの一族が栄えた地……。遠い場所です」
「争いを嫌い、この地に我らの父祖が移り住んでから、
もうどれだけになるのかのう。
シリンの頃か、それより昔になるのか、里の記録にも、もう残ってはおらぬ」

「しかし、鬼が去っても、人の世の争いは止むこともなく…」
男の口調に苦いものが混じる。
老人も苦々しげに頷いた。
「去年の秋は…酷いものじゃったのう。
結界が守ってはくれたが、里の近くで戦とは…」


その時、庭に二人の男が入ってきた。
「お館様、長老、お邪魔します」
「ただ今、戻りました」
二人とも、大きな荷を背負っている。

隠れ里とはいえ、その中だけで全てをまかなうことはできない。
だから時折、人間の住む村に下りては、里で作った物と交換に、
必要な物資を調達してくるのだ。

「ご苦労だった。皆で荷を分ける前に、少し休むといい」
男は立ち上がると、座っていた場所を空け、老人の隣に移った。

「はっ。ありがとうございます。ところで…」
「我ら、噂を耳にしたのですが…」
二人は、座るやいなや話し始めた。

「ほう…例の噂かの?」
「はい、源氏の神子…とかいう娘のことでございます」

「……ん?」
話を続けようとしていた男が、棟梁の様子に口をつぐんだ。
が、すぐにその口元がほころぶ。
老人も、声を出さず、肩だけを上下させて笑っている。

棟梁はすっと立ち上がると、音もなく庭に下り、
戸板の死角に隠れていた子供を、ひょい、と持ち上げた。

「わっ!」
腰帯をつかまれたまま、空中でじたばたしているのは、
さっきまで蝶を追っていた幼い子供。

「盗み聞きか、リズヴァーン」
「ご、ごめんなさいっ!」
父の目の高さまで持ち上げられたリズヴァーンは、
手足をばたつかせながら、首をぴょこんと下げて謝った。

「一緒に話を聞きたいなら、堂々と頼めばよい」
「わ〜い!」
思わず歓声を上げるが、父の一睨みで、縮こまる。
「お願いします…。いいですか」
「いいだろうか、長老」
「わしはかまわぬ。中に入ってよいぞ、リズヴァーン」

しかし、父の隣に緊張して座ったリズヴァーンは、すぐに後悔した。
大人の話は退屈で、よく分からない。
しかも、運ばれてきた荷の話が聞けるかと思ったのに、
話題は人間の戦のことだったのだ。

「『源氏の神子』とは、龍神の神子のことでございました」
「何っ」
「まことか」

リズヴァーンは、こっくりこっくりと、居眠りを始めた。
父さん達の声が遠くなる。

「剣の一振りで、平家の放つ怨霊を消し去るということです」
「女の身で、剣をとるというのか」
「わしらの言い伝えとは、ずいぶんと違うようじゃのう」
「怨霊を消すというのは、伝え聞く龍神の神子の封印なるものと同じなのだろうか」
「風聞のことゆえ、どこまでが本当なのかは分かりかねますが…」

りゅうじんのみこ?

リズヴァーンは、父の巌のような腕にもたれて眠ってしまった。

「しかし、源氏のために戦っているとなれば、神子の敵は平家」
「我ら一族に仇為すことはないかと」

その時、
「あっ、リズ、ここにいたのか」
垣の外から、すぐ上の兄の頭が、ひょこんとのぞいた。
家の中の父に眼顔で問うと、庭に入り、長老に一礼する。

リズヴァーンを抱いて庭に下りた父にも、すまなそうに頭を下げる。
「すみません、父上。ちょっと目を離したすきに」
「かまわぬ。家まで運んでやってくれ」
「はい」

小さな弟を背負うと、兄は長老の家を後にした。

楡の木の上でひよどりがかまびすしく鳴くのを、しっしっと追い払う。
そして頭を傾げて弟が静かに眠っているのを確かめると、ほっとして歩き出した。

弟のふわふわとした髪の毛が、首に当たってくすぐったい。
兄弟の中でただ一人、亡くなった母さんにそっくりの、柔らかく波打つ髪……。

高く上がった太陽の下、兄は里の道をてくてくと進んでいく。

幼いリズヴァーンは陽光の中、兄の背で、ただすやすやと眠るばかり。







[1.狭間を往く者]  [2.驟雨]  [3.閑日]
 [4.富士川 東岸]  [5.富士川 西岸・前編]  [6.富士川 西岸・後編]
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[13.腕輪]  [14.剣が繋ぐ光]  [15.交錯]
[16.若き師と幼き弟子]  [17.交錯・2]  [18.鞍馬の鬼・前編]  [19.鞍馬の鬼・後編]
[20.交錯・3 〜水車〜]  [21.交錯・4 〜ある日安倍家で@3〜]

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あとがき

リズヴァーンの子供時代、
時空移動前の、まだ鬼の里が平和だった頃の話でした。

けれど、一読してお分かりの通り、滅びは目の前に迫っています。
リズヴァーンの父と長老の会話に出てくる去年の秋の戦とは、
もちろん、倶利伽羅の戦いのこと。
ここで亡くなった平家の武者達が、怨霊の群となって
数か月の後には里を襲うことになります。

神子に会うまで生き抜き、自らを鍛え、
たった一人の孤独な日々にも折れることのなかった、リズヴァーンの心の強さ、優しさの源は、
幼い日々にあったと、勝手に妄想しています。

未読の方は、よろしければ、
長編余話にて、滅びの後を描いた掌編「我が故郷は静けき眠りにありて」も
ご一読してみて下さいませ。
また、長老と父君の会話の中の、リズヴァーンの名付けにまつわることは、
長編間章「散桜」第3,4話にございます。

この話に限らず、本シリーズは細々したところで長編と関連していたりしますが、
管理人のこだわりゆえ、本筋に関わる以外はコメントするだけ野暮というもの(笑)。
お気づきの方は、どうぞ笑って読み流して下さい。



2008.4.23 筆