時空(とき)のさすらい人


富士川 東岸




ちり…と首筋に嫌な感覚が走る。

見られている……。
だが、どこから。

頼朝は、篝火で照らされた陣幕の内に目を走らせ、外に広がる夜陰を窺う。

しかし、不審な人影はない。
周囲に立ち動く者も、皆よく見知った武将達だ。

あれの力なれば、すぐに正体を見破るのだろうが…。
頼朝はちら、と思う。
しかし、政子は伊豆にいる。

平家本隊とは初めての戦。
北の方を伴うなど、論外だ。


だがこの視線、殺気を孕んではいない…。

頼朝は逡巡なく判断した。

今は眼前の敵に如何に勝つかが大事。
曲者の探索はその次だ。


その時、陣幕の外が騒がしくなった。

武士が一人、慌ただしく頼朝の前に駆け入る。
「申し上げます!ただ今、物見が戻って参りました」
「通せ」

その言葉が終わると同時に、若い男が膝をついたまま、つい…、と進み出た。
防具は身につけず、武器は腰に挿した刀だけ。
身軽が身上の物見とはいえ、極端な軽装備だ。

「甲斐が動きました。書状がこれに…」
男の声が響くと、周囲の武士達から喜びのざわめきが起こった。
しかし頼朝の次の言葉に、皆すぐに沈黙する。

「いつ到着する」
固唾を呑んで返事を待つ。
「明日の昼頃になるかと」
「どちらから来るのだ」
「右岸を」
「だが、平家が知るのも時間の問題だな」
「物見は全員、斬り捨てました」
「ふ…、お前らしい。信直」

どっと、どよめきが起こった。
甲斐の源氏が来る。
このことは、平家との圧倒的な戦力差を埋めてなお余りあるものがある。

これまで、夜襲を主張する者も少なくなかった。
兵力に劣る側が夜討ちをすることは、いわば常套手段。
戦の倣いとして、卑怯な戦法と非難されることもない。

しかも、源氏の士気は高い。
たった数十騎で旗挙げしてからまだ間もない頼朝軍に参戦した関東武士達は、
頼朝のこれからに賭けている。
そして平家本隊との初戦で、早くも清盛の嫡流が総大将として出陣してきたのだ。

この戦に勝ち、総大将、平惟盛の首級を上げれば…!
荒ぶる坂東武者達は、逸る心を抑えかねていた。


しかし、頼朝の判断は極めて冷静だった。

夜戦は劣勢の者が勝つための最終手段、と頼朝は考えている。
敵の隙を上手く突けば、勝機は見える。
だが、危険もまた、看過できぬほどに大きい。

まず、兵の数が違いすぎる。
さらに、夜の闇の中では敵味方の区別がつかない。
街の中であれば、家々に火を放つこともできるが、ここは富士川。
燃やすものとてない。
そして何より、事前に敵がそれを予期していたならば、
こちらは灯火に飛び込む虫けらも同然となる。

今は、全軍の士気が高い。
それは時の勢いに負うところが大きいといえる。
次々と参集する各地の豪族は、小競り合いでのうち続く勝利に意気が上がっている。

それでもまだ、頼朝の下についたとはいえ、彼らの結束は一枚岩とは言い難いのだ。

ここで敗北はできない。
賭に出る時ではない。


そこへ甲斐の源氏が、以仁王の令旨に呼応して対平家へと動いた。

これで形勢が大きく変わる。

東岸から討って出る頼朝軍と、西岸の上流から来る甲斐源氏。
川での戦いは戦線がどのような形になるか、予測がつかない。
だが、二つの軍で挟撃すれば、平家に壊滅的な打撃を与えることは可能だ。


頼朝は立ち上がった。

「明日の矢合わせは、約定の通り行う。
戦が始まって後は、甲斐との合流まで勇み過ぎるな」

「はっ!」
武士達が一斉に答える。

対岸の煌々たる灯りに目をやり、頼朝は言葉を続けた。
「心して明日に備えよ」
そう言った頼朝の口元に、皮肉な笑いが浮かんだ。



「取り逃がしたか」

河原三郎信直……頼朝に旗挙げ以前から付き従っている手練れの若武者は、
夜陰に紛れ、静かに水面を行く遠くの小舟を睨んでいた。

信直の追っていたのは、小舟で遠ざかっていく姿無き侵入者。
得体の知れぬその気配を、信直もまた察知していた。

先程のこと。
信直の報告を聞き、
『お前らしい…』
頼朝はそう言いながら、陣幕の外を目で示した。
気配の元を探れ、という命だ。

それを受け、報告をすませるやいなや、陣幕を出た。
源氏の陣中を探り、周辺の川原や土手までも探索したのだが…。

あまりにも見事な退き方であった。
気配を完全に断ち、動きが異様に速い。

「あやつ、何者か」
信直は剣の束に手を掛け、ぐっと握りしめた。

小舟の行方を目で追えば、平家の陣に向かう様子がないことがわかる。
もしも間者であるならば、完全に逃げおおせた今、
真っ直ぐに本陣に向かっても障りはないはず。

対岸からは、川風に乗って宴の音が流れてくる。

惰弱なことだ…
侮蔑の念すら浮かぶが、
明日の戦を思うと、我知らず血が騒ぐ。

その眼に抜き身の剣のような光を宿したまま、川に背を向け、
信直は自陣へと戻った。



リズヴァーンの操る小舟は、葦の茂みに音もなく分け入った。
平家の陣から離れた、上流側の岸辺に上陸する。
川を挟んでの合戦では、戦線は下へと流されていくもの。
ここなれば、目につくことも少ないだろう。

源氏の軍の様子はおおむね把握した。
総大将頼朝の放つ、尋常ならざる気の有り様もわかった。

戦力では圧倒的に不利とはいえ、時の利は今、頼朝が引き寄せている。

対する平家はどうか。

戦の前夜に宴に興じているのは、驕りか、
それとも源氏の目を欺くためのものか。

リズヴァーンの姿が夜闇に溶けた。

長き源平の戦いの始まりを見届けるため、平家の陣へと向かう。
夜の闇を通しても、あかあかとした篝火と人の動きはよくわかる。
時折嬌声が混じるのは、近隣の街から集めた遊女たちか。

リズヴァーンは岸辺に沿って走った。

富士川の川面は暗く、遠く広がり、
対岸の源氏の陣は、灯火のみが揺らめく中、しん…と静まりかえっていた。







[1.狭間を往く者]  [2.驟雨]  [3.閑日]
 [5.富士川 西岸・前編]  [6.富士川 西岸・後編]
[7.霧の邂逅]  [8.兆し]  [9.天地咆哮]  [10.三草山]  [11.三条殿炎上]
[12.皐月の里]  [13.腕輪]  [14.剣が繋ぐ光]  [15.交錯]
[16.若き師と幼き弟子]  [17.交錯・2]  [18.鞍馬の鬼・前編]  [19.鞍馬の鬼・後編]
[20.交錯・3 〜水車〜]  [21.交錯・4 〜ある日安倍家で@3〜]

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あとがき


ごめんなさい…と最初に謝っておきます。
長編「果て遠き道」に出てくる
オリジナル・キャラの信直を出してしまいました。
知らない方も多いかと…。

ただ、この連作の背景設定が、長編へと続く時期であるだけに、
どうしても自分の中でのこだわりと誘惑に打ち勝ちがたく…(苦笑)。

文章の配置が今までのセンター揃えから変わり、
あれ?と思われた方もいらっしゃるかと思いますが、
内容が叙情的ではないので、普通の小説と同じ扱いにしました。

話の趣も少し変化を持たせて、リズヴァーンは最後に顔を出すだけ。
こんなのも、ありかと思うのですが(笑)、どうでしょう。




2007.10.2 筆