時空(とき)のさすらい人


鞍馬の鬼・前編




青い月の下、水底のような光に満ちた森の奥に、一人の少年が立っている。

「先生、お別れのご挨拶に参りました」
凛とした声で木々の向こうに呼びかけると、次の瞬間、
少年の眼前に黒装束の丈高い青年が現れた。

夜闇に淡く光る髪をした青年に、少年は深々と頭を下げる。

「これまで先生には…」
少年が神妙な面もちで礼の言葉を述べようとするのを、
青年は静かに制して言った。
「準備が整ったのだな」

少年は顔を上げ、師を振り仰いで答える。
「はい。このまま身一つで出立して、大原で弁慶と合流します」

「弁慶…比叡の荒くれ策士か」

師の言葉に、少年の口がへの字に曲がった。
「先生、確かに私は以前、弁慶を『荒くれ策士』と罵りました。
けれど今では、弁慶にすまなかったと思っています。
弁慶にももちろん、平然と嘘をつくなど質の悪いところはあります。
それに人を丸め込むのが得意で、口は全く信用できませんし、
笑顔の裏で何を考えているか皆目見当がつかず、さらに…」

どちらが気の毒なことを言っているのか、気づかぬところが九郎らしい。
そして、これほど悪し様な言を並べながら、そこに悪意が全くないことも。

微かな可笑しさを感じつつも、リズヴァーンは九郎の必死の弁明に耳を傾ける。
人の結ぶ絆とは不思議なものだ。
仇敵のように相争った九郎と弁慶が、互いに背中を預け合うようになるとは。

九郎は顔を上げ、最後にきっぱりと言った。
「しかし弁慶は、真のもののふです」

リズヴァーンは穏やかに微笑んで頷いた。
「得難き友を得たな、九郎。
前途には幾多の困難が立ち塞がることだろうが、
友と一緒に乗り越えて行きなさい」
「はい!」
頬を真っ赤に上気させて、九郎は元気よく答える。

この先に待つ旅立ちを思い、心が躍るのであろう。
遠い平泉への旅は、平家から逃れる決死の逃避行であると同時に、
源氏再興への新たな道を造る旅でもあるのだから。

リズヴァーンは静かに続けた。
「どのような危難に遭おうとも、必ず機は訪れると信じなさい。
大切なのは、あきらめぬことだ。
あきらめた者の眼に、好機は見えない。
だがあきらめなければ、ただ一度の機を逃すことはない」

九郎はその言葉を口の中で小さく繰り返した。
「先生の教えは決して…忘れません」
こみ上げてきた熱いものを隠すため、頭を深く垂れる。

「月が傾いている。もう行きなさい」
リズヴァーンの深い声が、力強く背を押し、
九郎は身を翻して夜闇の中へと駆け出した。

その後ろ姿を見送るリズヴァーンの心の内にも、
熱くうねるものがある。

自分が義朝を救った時空で生を受けた、小さな命。
父亡き後に逆境の中で産まれた命は、
勁く育ち、志を抱き、やがて時代をも変えていく。

そして今から十年の後、九郎と私はこの京で
再び会うことになるのだ。
剣となり、盾となって龍神の神子を守る、八葉として。

懐に隠した白い鱗が、ほのかに暖かい。
これは私の意志か、時空の意志か。

幾度も問うてきた答えの無い問いが、胸を叩く。

リズヴァーンは月を仰いだ。

ただ一つ、確かなことがある。
選んだのは、私だ。
そして、この時空を進まねば、あの人に辿り着くことはできない。

青い月光に金色のきらめきを残し、
リズヴァーンの姿はひっそりと消えた。







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 [4.富士川 東岸]  [5.富士川 西岸・前編]  [6.富士川 西岸・後編]
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[12.皐月の里]  [13.腕輪]  [14.剣が繋ぐ光]  [15.交錯]
[16.若き師と幼き弟子]  [17.交錯・2]  [19.鞍馬の鬼・後編]
[20.交錯・3 〜水車〜]  [21.交錯・4 〜ある日安倍家で@3〜]

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あとがき

「遙か3」メモリアルブックの年表を元に、
1175年頃を想定して書きました。
24〜25歳の先生です。
九郎さんは12歳くらい。
山から下りて街でケンカを繰り返す小学生って…。



2010.10.16 筆