時空(とき)のさすらい人


富士川 西岸・前編




平家方は大軍。
野営の陣も、富士川沿いに収まらず、後方に長く伸びている。

篝火を避け、物陰から物陰へ、リズヴァーンは音もなく移動する。

将のいる場所はすぐに分かった。
そこだけひときわ明るく、警戒が厳重である割に、人の出入りが多い。
持ち込まれる食べ物は、合戦の糧食ではなく、煮炊きされたものだ。


「本当に東国の武士というのは野蛮で恐ろしいものなのですね」
優しげな声の持ち主は、あでやかな若武者。
それに対し、側に控えた剛胆な面構えの武士が答える。
「しかし、それが坂東武者の戦というもの。心なされよ」
「私も平家一門の嫡男。お祖父様の名に恥じるような真似は致しません」
かすかなため息と共に、若武者は言った。
「ご油断召さるな。甲斐の源氏に後方を取られてはなりません」
「物見の者は、まだ戻らないのですか」
「はい」
武士の声に、かすかな焦燥が滲んでいることに、若き総大将は気づかない。


そこまで聞くと、リズヴァーンは本陣を後にした。

広い陣の中を探る。
大軍とはいえ、途中で駆り出された隊も多い。
つまりは、旧来から平家に仕えていた者ばかりではないということだ。
寄せ集めという点では、源氏方も同じ。
しかし……。

兵達が、陣の暗がりや川原の隅で話している。

「源氏が夜襲を仕掛けてくるかもしれぬ」
「甲斐の源氏が、背後まで来ていたら…」

ここかしこで、下級の武士や雑兵の口の端に上っているのは、
流言飛語、噂、憶測だ。
彼らを統括し、士気を高めるのが上に立つ者の役目でもあるはずだが、
多くは別のことに心を向けているようだ。
否、むしろ、戦が眼中にないのか、厭わしいのか。


川原に隣り合う林のはずれ近くに、葉を生い茂らせた高い木がある。
リズヴァーンは、中程に伸びた太い枝を選んだ。
葉の間隙から、平家の陣、川の対岸に源氏の陣が見える。

源氏の夜襲は、ほぼない。
しかし今夜はここで両軍の動きを見張ろう、…リズヴァーンはそう考えている。
何が起きるか分からず、何が起きても不思議ではないのが戦場。
一寸先のことは、誰にも予測できないのだ。


と、リズヴァーンの予測外のことが早速起きた。

「なずな、一緒に逃げるんだ」
「いや!なんで千太なんかと」
雑兵が、遊女とおぼしき若い娘を引きずって、こちらにやってくる。

「武士に媚び売って、楽しいのか」
「放っといてよ。平家のお武家様よ、見た?あのきれいな戦装束」
「だいたい、何でお前がこんなことしてんだよ」
「仕方ないじゃない。父ちゃんが死んじゃったら、あたしが頑張るしかないでしょ」

リズヴァーンのいる木の下で、言い合いを始めてしまった。

「約束…しただろ」
「千太が都に行く前のことじゃない」
「大番役のお供だ。三年で帰るって…」
「待ってる間に、飢え死にしろっていうの?」

「な〜ず〜な〜!!」
だみ声が、遠くから娘の名を呼んだ。
「どこに行ったんでしょうね、すみません、探して参ります」
なだめる女の声も聞こえる。

「あ…お姐さんだ…」
「おい、待てよ。川伝いに逃げれば、俺達の村はすぐ近くじゃないか」
娘は、男の手を振り払った。
「世話になってるから…迷惑かけられない!」
きっぱりとそう言うなり、走り出す。
「ごめん、千太。ありがとね」
「!!………」
娘の強い口調に押され、男は足を踏み出せない。

「なずな、こんな所にいたのか、早よう、来い」
だみ声が言った。
「ごめんなさい…」
声が遠ざかる。

男は唇をかみしめ、自分も陣へと戻っていった。
木の上で、それまで身じろぎもしなかった者がいること、
その者が、潜めていた息を長く吐き出したことに、気づくはずもなく。




底流に不穏な緊張感を漲らせながらも、
源平それぞれの思惑とは関わりなく、静かに夜は更けていった。

しかし、夜半にさしかかる頃のこと、
東の岸から、天地を轟かせ、雷とまごうばかりの音が響き渡った。

音はざざざと川を渡り、西岸へと押し寄せてくる。

平家の陣は一気に混乱に陥った。
「すわ!源氏の夜襲ぞ」
「これは甲斐の軍も一緒か!」

熟睡していた者も多い。
弓の弦を外していた者も、それ以上に多い。
馬の綱を解かずに、鞭をくれる者まで出る始末。

大勢の叫び声が行き交う。
その音は、前線の雑兵溜まりにも聞こえてきた。

最初の轟音には、
「なんだ、水鳥か」
と、すぐに目を閉じた千太だった。が、人々の叫び声に驚いて跳ね起きる。

周りはすでに大騒ぎとなっていた。
「急げ!源氏が来る!」
「早く逃げないと、挟み撃ちだ」

「何の騒ぎだよ!」
仲間に問うが、皆すでに浮き足立っている。
「あの音を聞かなかったのか?大軍の鬨の声だ」
「水鳥の羽音のことか?」
しかし、千太の言葉に耳を貸す者はいない。

「落ち着けよ!!水鳥が飛び立っただけなんだよ!!」
大声で叫ぶが、川原に渦巻く怒号と馬の嘶き、人々の足音にかき消される。
もとより、雑兵ふぜいを信じる者もいない。


「退却しましょう!墨俣まで引き返し、そこで陣を立て直すのです」

総大将の下知が下った。
平家の軍は雪崩を打って、川を離れた。

「何が起きたの?」
「お武家様、私達はどうなるのです?」

戦場のことなど何も知らず、うろたえる遊女達は、
ひしめき走る馬の蹄にかけられた。
歩行の雑兵や、随伴の商人も例外ではない。
わけもわからぬまま、ある者は頭を割られ、ある者は踏みつけられて、倒れた。
枯れた蘆、すすきの穂が、朱に染まっていく。




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[16.若き師と幼き弟子]  [17.交錯・2]  [18.鞍馬の鬼・前編]  [19.鞍馬の鬼・後編]
[20.交錯・3 〜水車〜]  [21.交錯・4 〜ある日安倍家で@3〜]

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2007.10.6 筆