時空(とき)のさすらい人


天地咆哮




富士川の戦の翌日、リズヴァーンは黄瀬川の頼朝の陣に向かった。
その目的は、勝利の翌日の様子を見ることにあったのだが…。

戦勝の歓びに湧く源氏の軍の士気は、さらに大きく上がっていた。
頼朝の陣に、九郎と弁慶が馳せ参じる、との報がもたらされたからであった。

九郎が、動いたか。

弁慶と共に、九郎が平家の目を逃れ、京から平泉へと向かったのは、
もう何年前のことになるのだろうか。
あの頃はまだ、九郎にも弁慶にも、少年の面差しが残っていた。

その二人が、北の彼方、奥州の地から戻ってきたのか。

この日こそが、九郎が長く待ちわびた対面の時。
幼くして肉親から引き離された九郎にとって、
血を分けた実の兄、頼朝の存在は心の支えであり、
源氏再興という同じ目的を持つ、同志でもあった。

鞍馬での厳しく辛い修行を耐え抜いたのも、
その強い気持ちがあったればこそ。

歓呼の声と共に陣に迎え入れられる九郎と弁慶は、
今は丈高い、立派な若者へと成長していた。


その後ろ姿を遠くから見届けると、
リズヴァーンはそのまま、京へととって返した。

今は彼らとの再会の時ではないと、自ら心得ている。

時が、近づきつつある。
やがて時代は源平の争乱へと雪崩れ落ちていく。
その時まで、私はまだ身を隠していなければならない。



しかし、弁慶がほどなくして九郎と別れたこと、
自分と相前後するようにして京に入ったことを、
リズヴァーンは知る由もなかった。



富士川での戦は、戦わずして源氏が勝利を我がものとしたそうな…。

口さがない都人達は、平家を憚りながらも、
こっそりと小気味よげにささやきあった。

もちろん清盛は、あまりに情けない負け戦に激怒した。

だがこれをもって平家の落日の始まりと見る者は
まだ都人にはもちろん、平家の中にあっても数少ない。

特に宮廷の数多の貴族には、
春先に起こった源三位頼政に続き、
今度は源氏の流人が争乱を起こした……
という程度の認識しかない。

熊野でも争乱が続いているが、
こちらは別当の湛快が反乱を収めつつある。
ならばいずれ、源氏もおとなしくなるだろう…と彼らは思っている。

これらが大いなる時代の変化の兆しであることを、
我が身に降りかかるまで、気づかぬものなのだろうか。



しかし戦火の前に、京を異変が襲いつつあった。

目に見えぬその異変は、じわり、じわりと京を浸潤していく。
巡り巡る大いなる気の流れ、京を取り巻く豊かな恵みが、
今、枯れ果てようとしている。

「何が…起きているのだ…」

鞍馬の山で、リズヴァーンは空を見上げていた。

気が、滞っている。
空からは清澄な輝きが失われ、吹く風も山の気を運ばない。
土はぱさぱさと手からこぼれ落ち、水は淀んでいる。


「何が、起きているのでしょう…。
こうしては…いられません」

数日来伏せっていた姫が、やっとのことで身を起こした。

「菫様、ご無理なさってはお身体に障ります」
側に付いた女房が咎めるが、菫姫はそれを押しとどめた。

「お祈りをします。一人にしてくれますか?」

こういう口調の時の姫様には逆らえない。
女房は奥へと退いた。

菫姫は、厨子から塗り物の箱を取り出した。
紐を解くと、中には布に包まれた白い石が入っている。

菫姫は石をそっと手に取ると、大事に胸に抱くようにしながら、
御簾を上げ、庇の下まで下りた。

今日は、ことのほか気が滞っている。
陽も射さず、風もなく、鳥も鳴かず、
雲の低く垂れ込める冷え冷えとした日。

菫姫は、石を手でくるみ、眼を閉じた。

石は、菫姫のぬくもりを吸い取るかのように、冷たい。

神子様…

菫姫は祈る。

遠い、どことも知れぬ彼方の、顔も知らぬ「龍神の神子」に向けて。

龍脈の力が、日に日に失われていきます。
神子様……どうかお力をお貸し下さい。
どうか、京をお救い下さい。

祈りを…お聞き届け下さい。


山が、ざわめいた。
地が、動いた。
空が、哭いた。

人智を越えた力が、京を震わせている。

菫姫が、眼を見開いた。

リズヴァーンが空を仰いだ。

目に見えぬ大いなるものが、
南の水面を沸き立たせ、
西の彼方より大地を掠めながら飛び、
東の川底を貫いて天に立ち昇り、
北の山に真っ逆さまに落ちた。

そして次の瞬間、山を突き破り、天空へと躍り出る。

気脈が激しく乱れている。
嵐の中の一葉のように、ただ翻弄される。
見慣れた鞍馬の山々が牙を剥き、身を捩っている。

獣が倒れ、鳥がばらばらと地に落ちていく。

リズヴァーンは、かろうじて気を保っていた。
この異変を、見届けねば、と思う。

その時、天地が咆哮した。

人の耳には聞こえぬ音が、
京を満たし、さらに彼方へと轟き、広がる。

リズヴァーンが天空に見たのは幻か。

黄金の眩い光が、みるみる輝きを失い、二つに分かれた。
二つの光は白と黒の龍になり、
やがて一つは天へ、一つは地へと姿を消した。



治承四年十一月、応龍が分かたれた日であった。







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[16.若き師と幼き弟子]  [17.交錯・2]  [18.鞍馬の鬼・前編]  [19.鞍馬の鬼・後編]
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あとがき


先生のお誕生日記念のつもりで書いた話です。
……あまりめでたくないかもしれませんけれど(苦笑)。

ただ、ある意味、応龍分離というのは「3」の物語的にいえば、
望美ちゃんが来る前に起きた、最大のできごとではないかと。

その時、先生はどこにいたのでしょうね。

主役としては、鞍馬山で異変を見届けて頂かなくては、
ということで、このような妄想的構成になりました。

なので敢えて、弁慶さんの動きや、
将臣くんが福原に来たことにも触れず、
菫姫と白龍の時空移動も、かすかに匂わせるだけに留めました。

これはひとえに、背景を分かって頂いているという大前提があればこそ。
二次、バンザイです。
そして「3」のメモリアルブックには、この上もなく感謝!です。



2008.1.9 筆