西へ西へと土煙を上げ、人と馬の群が走り去る中、一人、千太は残っていた。
流れに逆らって進もうとしたために、少なからず手傷を負ったが、
自分の痛みなどは、どうでもよかった。
倒れた篝火の一本を松明にして、あちこちから呻き声の上がる陣の中を歩き回る。
女のものとおぼしき着物姿を見つけては、灯りを掲げてのぞき込み、
うっと喉をつまらせては、その場を離れた。
胃の腑を空にした頃、やっと探していた娘…なずなを見つけた。
足を血に染め、草に埋もれて倒れている。
「なずな!」
駆け寄って抱き起こす。
「あ…」
なずなはうっすらと目を開け、次に弱々しくもがいた。
「見ないで…」
しかし、気づかぬわけにはいかなかった。
顔の半分に大きな傷。
「この傷…鞭の痕か」
「…水鳥の音だから大丈夫…って、言ったら…邪魔するなって…」
「あ、あの野郎…」
やはり、後を追えばよかった。止めればよかったんだ!
悔しさが湧き上がる。
「もう行きなよ。逃げたと思われるよ」
なずなは、力無く千太を押しのけようとした。
しかし、
「行かない。一緒に帰るんだ!」
そう言うと、千太は平家の赤いしるしを胴着からむしり取り、
なずなを背負って、歩き出す。
西に傾いた月が、川面に映え、足元を照らしている。
とはいえ、暗い夜道。いや、道すらもない。
何度も転びそうになりながら、一歩ずつ、歩みを進める。
「もういい」
なずながそう言うのは、何度目だろうか。
「……」
答えれば押し問答になる。しかし、そうなったら、勝てない。
それが分かっているから、千太は口をへの字に結んだまま、黙っている。
「顔の傷…一生残るんだ。足だって、動かない。
帰っても足手まといになるだけなんだよ。だから…」
「だったら、俺の嫁になれ」
「……何ばかなこと…」
「約束しただろ」
「……もう畑仕事もできない…顔だって…」
「お前はきれいだ」
「……ばか」
ささやかな幸を願う者達は、対岸のことなど知る由もなかったが…
富士川の東の岸では、冷徹な眼差しの男が川辺に立ち、
灯火の消えた川面を見、次いで月を仰いでいた。
「水鳥が我が援軍とは…」
呟いたその声には、一抹の苦さがある。
平家本隊との交戦の機会が失せた。
総崩れの軍を叩くのは容易いかもしれない。
だが、これより先の深追いは禁物。
まだ関東を空にするわけにはいかないのだ。
代わりに、平家を追う者が必要だ。
源氏の旗印の下に、平家と戦う者が。
木曽…ならば京に近い。
だが木曽は……信用ならぬ。
背後に足音がした。
「使者が着きました」
「甲斐か」
「九郎義経殿の書状を携えた使者にございます。
頼朝様の軍に参陣のため、九郎様が平泉より戻られた由」
少しの間を置いて、頼朝は振り向くことなく答えた。
「その者を、これへ」
なずなは、水辺へと向かっていた。
片足が動かない。
両の手を使い、枯れた草の間を這っていく。
顔の傷に草がかかるたび、悲鳴を上げたいほどの痛みが走るが、必死にこらえる。
大事な簪を落としたからと、千太に嘘を言って探しに行かせた。
今のうちに……。
身体の下の土が、湿り気のある感触に変わった。
水の臭いがする。
あと、少しだ。
『嫁になれ』
そう言ってくれたけど、もう、あたしは…昔とは違う。
伸ばした手が、水に触れた。
『お前はきれいだ』
嬉しかった。
「さよなら」
その時、月が翳った。
「自ら死を選んではいけない」
静かな、しかし力強い声が、頭上から降ってくる。
驚いて顔を上げると、月を背にした大きな男の姿がある。
陰になって、顔は見えない。
「ひ…」
死のうと思っていたのに、恐怖を覚える。
悲鳴が喉に張りついた。
「な、なによ…放っておいて」
やっとのことで、声を出す。
男は言葉を続けた。
「お前は気づかないのか。お前があの男を支えていることに」
何を言っているんだろう、この男は。
「違うよ、あたしは足手まといなだけ」
「あの男もまた、傷を負っている。
だが、それでもまだ倒れずにいるのは、お前がいるからだ」
「え…?千太が、怪我をしてるの?
なんで、そんなこと、あんたに分かるのさ?!」
思わずなずなは叫んでいた。
「歩き方が尋常ではない。傷の痛みで、お前は気づかなかったのだな」
「そんな……」
千太は、自分の痛みなど、おくびにも出さなかった。
涙が傷にしみる。でも堪えなければ、と思う。
「この先の葦の茂みに舟がある。使うといい」
男は背を向けた。
「え?どうして……そこまで」
「あの男の、生きる力となってやりなさい」
そう言うと、男は消えた。
月の光に、一瞬黄金のきらめきが見えたような気がした。
「なずなぁ!どこだぁ!」
必死な声がする。
ふうっと息を吐き、笑顔を作ってみた。
手を空に向けて振りながら、精一杯の声で応える。
「ここだよぉ!」
[1.狭間を往く者]
[2.驟雨]
[3.閑日]
[4.富士川 東岸]
[5.富士川 西岸・前編]
[7.霧の邂逅]
[8.兆し]
[9.天地咆哮]
[10.三草山]
[11.三条殿炎上]
[12.皐月の里]
[13.腕輪]
[14.剣が繋ぐ光]
[15.交錯]
[16.若き師と幼き弟子]
[17.交錯・2]
[18.鞍馬の鬼・前編]
[19.鞍馬の鬼・後編]
[20.交錯・3 〜水車〜]
[21.交錯・4 〜ある日安倍家で@3〜]
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ごめんなさい…と最初に謝っておきます。←またかい。
長くなってしまいました。
でも、書いていて楽しかったのも事実。
せめて、お読み下さった方が冗長と感じませんように、と祈るだけです。
変化球でいきたい!と思ったのが運の尽きといいましょうか。
リズヴァーンの視点を、徹底的に削って、
他者から見たリズヴァーンというのを書いてみたかったのですが。
「富士川 東岸」に引き続き、
こんなのも、ありかと思うのですが(笑)、どうでしょう。←またかい。
2007.10.6 筆